分析してみてはじめて発見するのである。粥釣《かゆつ》りが子供ばかりでなくむしろおとなによって行なわれたかと思わるる昔ではこうした雰囲気があるいはかなりに重要な意義をもっていたのではないかとも想像されるのである。
 自分の宅《うち》へ来る粥釣りを内側から見物した場合のほうが多かったように思う。粥釣りに来るおおぜいの中でも勇敢なのは堂々と先頭に立ってやって来るが、気の弱いのは先頭の背後に隠れるようにして袋をさし出すのもある。しかしなにしろおもに近所の人たちであるから、たとえ女の着物を着たり、羽織をさかさまに着たりしていてもおおよその見当がつく場合が多い。粥釣りを迎える家に勇猛な女中でもいると少し怪しいと思われるようなのをいきなりつかまえて面を引きはごうとして大騒ぎになるようなこともあったような気がする。
 こじきを三日すると忘れられないというが、自分にもこのこじきの体験は忘れられないものである。このこじき根性が抜けないおかげで今日をどうやらこうやら飢えず凍えず暮らして行かれるのかもしれないのである。
 こんな年中行事は郷里でも、もうとうの昔に無くなってしまって、若い人たちにはそんな事があっ
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