った。
 すぐに第四号の自画像を同大の画布にやり始める事にした。今度はずっと顔を大きくしてそして前よりも細かく調子を分析してやってみようと思った。ところが下図をかき始めにはかなり大きくかいたのが、目や鼻を直し直ししているうちに知らず知らずだんだんに顔が縮小して行くのが実に不思議であった。だいたいできたころに寸法をとってみるとやっと実物の四分の三ぐらいのものになっている事がわかった。それをもう一度すっかり消してやり直す勇気がなかったから今度もまたそのままでやり続けた。
 最初の日は影と日向《ひなた》とを思い切って強く区別してだいたいの見当をつけてみた。その時にできた顔は不思議に前の第三号の顔に似ていた。何かしら自分の頭の奥にこびりついた誤謬《ごびゅう》が強い力で存在を主張していると見える。
 この絵はとうとう二十日《はつか》余りいじり回したが、結局やはり物にならないで中止してしまわねばならなかった。顔の面積が大きくなっただけに困難は前よりもいっそう大きかった。局部にとらわれて全体の権衡を見失う事もいよいよ多かった。セザンヌが「わかりますか、ヴォラール君。輪郭線が見る人から逃げる」と言ったほんとうの意味はよくはわからぬが、全くそういったような気のする事がしばしばあった。右の頬《ほお》をつかまえたと思う間に左の頬はずるずる逃げ出した。ずっと前にいつかある画家が肖像をかいているのを見た事がある。その時に画家の挙動を注意していると素人《しろうと》の自分には了解のできないような事がいろいろあった、たとえば肖像の顋《あご》の先端をそろそろ塗っていると思うとまるで電光のように不意に筆が瞼《まぶた》に飛んで行ったりした。油断もすきもならないといったふうに目を光らせて筆をあちらこちらと飛ばせていた。羊の群れを守る番犬がぐるぐる駆け回って、列を離れようとする羊を追い込むような様子があった。今になって考えてみるとあれはやはり輪郭線や色彩が逃げよう逃げようとするのを見張っていたのだと思われた。こういうふうにやらなければならないとなるとなかなかたいへんだと思った。
 実際輪郭線がわずかに一ミリだけどちらかへずれても顔の格好がまるで変わってしまうのは恐ろしいようであった。ある場所につける一点の絵の具が濃すぎても薄すぎても顔がいびつに見えた。そのような効果は絵に接近して見ていてはかえってわからなくて少し離れて見ると著しく見えた。六尺の筆を使う意味が少しわかりかけたのである。
 どうにか顔らしいものができた時にはそれが奇妙にも自分の知っている某○学者によく似ていた。そうとも知らず家内のある者がこの絵を見て「大工か左官のような顔だ」といった。
 それから毎日いろいろと直して変化させている間に、いつのまにかまたこの同じ大工の顔がひょっくり復帰して来るのが不思議であった。会いたくないと思ってつとめて避けている人に偶然出くわすような気がしばしばした。ある日思い切って左の頬《ほお》をうんと切り落としてから後はこの不思議な幽霊に脅かされる事は二度となくなった。
 いつまでやってもついにできあがる見込みはなさそうに思われだした。ある日K君にこのごろ得たいろいろの経験を話しているうちに同君が次のような事を注意した。「いったい人間の顔は時々刻々に変化しているのをある瞬間の相だけつかまえる事は第一困難でもあるし、かりにそれを捕えて表現したとしても、それはその人の像と言われるだろうか」というような意味であった。そういうふうに考えてみると、単に早取り写真のようなものならば技巧の長い習練によって仕上げられうるものかもしれないが、ある一人の生きた人間の表現としての肖像は結局できあがるという事はないものだとも思われた。あるいはその点に行くとかえって日本画の似顔とかあるいは漫画のカリカチュアのほうが見込みがありそうに思われた。それほどではなくてもまつ毛一本も見残さずかいた、金属製の顔にエナメルを塗ったような堅い堅い肖像よりは、後期印象派以後の妙な顔のほうが少なくもねらい所だけはほんとうであるまいかと思われてくる。この考えをだんだんに推し広げて行くと自然に立体派や未来派などの主張や理論に落ちて行くのではあるまいか。
 仕上がるという事のない自然の対象を捕えて絵を仕上げるという事ができるとすれば、そこには何か手品の種がある。いったい顔ばかりでなく、静物でもなんでも、あまり輪郭をはっきりかくと絵が堅すぎてかえって実感がなくなるようである。たとえばのうぜんの葉を一枚一枚はっきりかいてみると、どうもブリキ細工にペンキを塗ったような感じがする。これは自分の技巧の拙なためかと思うが、しかし存外大家の描いたのでもそんなのがありやすい。これに反してわざと輪郭をくずして描くと生気が出て来て運動や遠近を暗示する。
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