これはたしかに科学的にも割合簡単に説明のできる心理的現象であると思った。同時に普通の意味でのデッサンの誤謬《ごびゅう》や、不器用不細工というようなものが絵画に必要な要素だという議論にやや確かな根拠が見つかりそうな気がする。手品の種はここにかくれていそうである。
セザンヌはやはりこの手品の種を捜した人らしい。しかしベルナールに言わせると彼の理論と目的とが矛盾していたために生涯《しょうがい》仕上げができなかったというのである。それにしてもセザンヌが同じ「静物」に百回も対したという心持ちがどうも自分にはわかりかねていたが、どうしてもできあがらぬ自分の自画像をかいているうちにふとこんな事を考えた。思うにセザンヌには一つ一つの「りんごの顔」がはっきり見えたに相違ない。自分の知った人の中には雀《すずめ》の顔も見分ける人はあるが、それよりもいっそう鋭いこの画家の目には生きた個々のくだものの生きた顔が逃げて回って困ったのではあるまいか。その結果があの角ばったりんごになったのではあるまいか。
こんなさまざまの事を考えながら、毎日熱心に顔を見つめてはかいていると、自分の顔のみならず、だれでも対している人の顔が一つの立体でなくて画布に表われた絵のように見えて来た。人と対話している時に顔の陰影と光が気になって困った。ある夜顔色の美しい女客の顔を電燈の光でしみじみ見ていると頬《ほお》や額の明るい所がどうしてもまだかわかぬ生の絵の具をべっとり盛り上げたような気がしてしかたがなかった、そしてその光った所が顔の運動につれていろいろに変わるのを見とれているうちに、相手の話の筋道を取りはずしそうになる事が一度ならずあった。その後に、ある日K君と青山の墓地を散歩しながら、若葉の輝く樹冠の色彩を注意して見ているうちに、この事を思い出して話すと、K君は次のような話をしてくれた。ゴンクールの小説に、ある女優が舞台を退いて某貴族と結婚したが、再びもとの生活が恋しくなるというのがある。その最後の条に、夫が病気で非常な苦悶《くもん》をするのを見たすぐあとで、しかも夫の眼前で鏡へ向かってその動作の復習をやる場面がある。夫がそれを見てお前は芸術家だ、恋はできないと言って突きとばすのでおしまいになっている。K君はこれを読んだ時にあまりに不自然だと思ったが、自分の今の話を聞くとそんな事もないとは限らないような気がすると言った。このような特殊な場合だけ考えると、実際世間で純粋な芸術が人倫に廃頽的《はいたいてき》効果を与えるといって攻撃する人たちのいう事も無理でないと思われて来る。しかしそういう不倫な芸術家の与える芸術その物は必ずしも効果の悪いものばかりとは思われない。つまり、こういう芸術家やこれとよく似た科学者らは、極端なイーゴイストであるがために結果においてはかえって多数のために自分を犠牲にする事になる場合もあるだろう。そういう時にいつでも結局いちばん得をするのは、こういう犠牲者の死屍《しし》にむちうつパリサイあたりの学者と僧侶《そうりょ》たちかもしれない。こんな事を考えているうちに、それなら金もうけに熱中して義理を欠く人はどうかという問題にぶつかって少しむつかしくなって来た。
毎日同じ顔をいじり回しているうちに時々は要領にうまくぶつかる事もあった。なんだか違っているには相違ないが、どう違っているかわからないで困っていたような所が、何かの拍子にうまく直って来る時には妙な心持ちがした。楽器の弦の調子を合わせて行ってぴったりと合ったような、あるいははまりにくい器械のねじがやっとはまった時のような、なんという事なしに肩の凝りがすうっと解けるような気がするものである。
そういうふうにうまく行った所はもう二度といじるのが恐ろしくなる。それをかまわず筆をつける時にはかなりヒロイックな気持ちになる。しかしそれをやるときっと手が堅くなっていじけて、失敗する場合が多い。進歩という事にさえかまわなければ手をつけないでそのままに安んじておくほうがいわゆる処生の方法とも暗合して安全であるかもしれない。
それで自画像第四号もとうとう仕上げずにやめてしまった。第三号は第一号のように意地の悪い顔であったがこの第四号は第二号のように温厚らしくできた。二重人格者の甲乙の性格が交代で現われるような気がした。
今度は横顔でもやってみようと思って鏡を二つ出して真横から輪郭を写してみたら実に意外な顔であった。第一鼻が思っていたよりもずっと高くいかにも憎々しいように突き出ていて、額がそげて顋《あご》がこけて、おまけに後頭部が飛び出していてなんとも言われない妙な顔であった、どこかロベスピールに似ているような気がした。とにかく正面の自分と横顔の自分を結びつけるのがちょっと困難に思われた。かつて写真屋のアルバムで知らぬ人
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