自画像
寺田寅彦
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)山本鼎《やまもとかなえ》氏
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)左右|顛倒《てんとう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)No.[#「No.」は縦中横]1
−−
四月の始めに山本鼎《やまもとかなえ》氏著「油絵のスケッチ」という本を読んで急に自分も油絵がやってみたくなった。去年の暮れに病気して以来は、ほとんど毎日朝から晩まで床の中で書物ばかり読んでいたが、だんだん暖かくなって庭の花壇の草花が芽を吹き出して来ると、いつまでも床の中ばかりにもぐっているのが急にいやになった。同時に頭のぐあいも寒い時分とは調子が違って来て、あまり長く読書している根気がなくなった。今までは内側へ内側へと向いていた心の目が急に外のほうへ向くと、そこには冬の眠りからさめて一時に活気づいた自然界が勇み立って自分を迎えてくれるような気がした。ちょうどそこへ山本氏の著書が現われて自分の手をとって引き立てるのであった。
中学時代に少しばかり油絵をかいてみた事はある。図画の先生に頼んで東京の飯田《いいだ》とかいううちから道具や絵の具を取り寄せてもらって、先生から借りたお手本を一生懸命に模写した。カンバスなどは使わず、黄色いボール紙に自分で膠《にかわ》を引いてそれにビチューメンで下図の明暗を塗り分けてかかるというやり方であった。かなりたくさんかいたが実物写生という事はついにやらずにしまった。そして他郷に遊学すると同時にやめてしまって、今日までついぞ絵筆を握る機会はなかった。もと使った絵の具箱やパレットや画架なども、数年前国の家を引き払う時に、もうこんなものはいるまいと言って、自分の知らぬ間に、母がくず屋にやってしまったくらいである。
その後都へ出て洋画の展覧会を見たりする時には、どうかすると中学時代の事を思い出し、同時にあの絵の具の特有な臭気と当時かきながら口癖に鼻声で歌ったある唱歌とを思い出した、そうして再びこの享楽にふけりたいという欲望がかなり強く刺激されるのであった。しかし自分の境遇は到底それだけの時間の余裕と落ち着いた気分を許してくれないので実行の見込みは少なかった。ただ展覧会を見るたびにそういう望みを起こしてみるだけでも自分の単調な生活に多少の新鮮な風を入れるという効果はあった。
中学時代には、油絵といえば、先生のかいたもの以外には石版色刷りの複製品しか見た事はなかった。いつか英国人の宣教師の細君が旧城跡の公園でテントを張って幾日も写生していた事があった。どんなものができているかのぞいてみたくてこわごわ近づくと、十二三ぐらいの金髪の子供がやって来て「アマリ、ソバクルト犬クイツキマース」などと言った。実際そばには見た事もないような大きな犬がちゃんと番をしているのであった。
それから二十何年の間に自分はかなり多くの油絵に目をさらした。数からいえばおそらく莫大《ばくだい》なものであろう。見ているうちに自分の目はだんだんにいろいろに変わって来た。そして芸術としての油絵というものに対する考えもいろいろにうつって行った。ただその間に不断にいだいていた希望はいつか一度は「自分のかいた絵」を見たいという事であった。世界じゅうに名画の数がどれほどあってもそれはかまわない。どんなに拙劣でもいいから、生まれてまだ見た事のない自分の油絵というものに対してみたいというのであった。
このような望みは起こっては消え起こっては消え十数年も続いて来た。それがことしの草木の芽立つと同時に強い力で復活した。そしてその望みを満足させる事が、同時に病余の今の仕事として適当であるという事に気がついた。
それでさっそく絵の具や筆や必要品を取りそろえて小さなスケッチ板へ生まれて始めてのダップレナチュールを試みる事になった。新しいパレットに押し出した絵の具のなまなましい光とにおいは強烈に昔の記憶を呼び起こさせた。長い筆の先に粘い絵の具をこねるときの特殊な触感もさらに強く二十余年前の印象を盛り返して、その当時の自分の室から庭の光景や、ほとんど忘れかかった人々の顔をまのあたりに見るような気がした。
まず手近な盆栽や菓子やコップなどと手当たり次第にかいてみた。始めのうちはうまいのかまずいのかそんな事はまるで問題にならなかった。そういう比較的な言葉に意味があろうはずはなかった。画家の数は幾万人あっても自分は一人しかいないのであった。
思うようにかけないのは事実であった。そのかわり自分の思いがけもないようなものができてくるのもおもしろくない事はなかった。とてもかけそうもないと思ったものが存外どうにか物になったと思う事もあり、わけもないと思ったものがなかなかむつかしかったりした
次へ
全10ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング