。それよりもおもしろいのは一色の壁や布の面からありとあらゆる色彩を見つけ出したり、静止していると思った草の葉が動物のように動いているのに気がついたりするような事であった。そして絵をかいていない時でもこういう事に対して著しく敏感になって来るのに気がついた。寝ころんで本を読んでいると白いページの上に投じた指の影が、恐ろしく美しい純粋なコバルト色をして、そのかたわらに黄色い補色の隈《くま》を取っているのを見て驚いてしまってそれきり読書を中止した事もある。またある時花壇の金蓮花《きんれんか》の葉を見ているうちに、曇った空が破れて急に強い日光がさすと、たくさんな丸い葉は見るまにすくすくと向きを変え、間隔と配置を変えて、我れ勝ちに少しでも多く日光をむさぼろうとするように見えた。一つ一つの葉がそれぞれ意志のある動物のように思われてなんだか恐ろしいような気もした。
 手近な静物や庭の風景とやっているうちに、かく物の種がだんだんに少なくなって来た。ほんとうは同じ静物でも風景でも排列や光線や見方をちがえればいくらでも材料にならぬ事はないが、素人《しろうと》の初学者の自分としては、少なくもひとわたりはいろいろちがった物がかいてみたかった。いちばんかいてみたいのは野外の風景であるが今の病体ではそれは断念するほかはなかった。それでとうとう自画像でも始めねばならないようになって来た。いったい自分はどういうものか、従来肖像画というものにはあまり興味を感じないし、ことに人の自画像などには一種の原因不明な反感のようなものさえもっているのであるが、それにもかかわらずついに自分の顔でもかいてみる気になってしまった。
 それである日鏡の前にすわって、自分の顔をつくづく見てみると、顔色が悪くて頬《ほお》がたるんで目から眉《まゆ》のへんや口もとには名状のできない暗い不愉快な表情がただようているので、かいてみる勇気が一時になくなってしまった。そのうちにまた天気のいい気分のいいおりに小さな鏡を机の前に立てて見たら、その時は鏡の中の顔が晴れ晴れとしていて目もどことなく活気を帯びて、前とは別人のような感じがした。それでさっそくいちばん小さなボール板へ写生を始めた。鉛筆でザット下図をかいてみたがなかなか似そうもなかった、しかしかまわず絵の具を付けているうちにまもなくともかくも人の顔らしいものができた。のみならずやはりいくらかは自分に似ているような気もした。顔の長さが二寸ぐらいで塗りつぶすべき面積が狭いだけに思ったよりは雑作《ぞうさ》なく顔らしいものができた、と思ってちょっと愉快であった。それでさっそく家族に見せて回ると、似ているという者もあり、似ていないというものもあった、無論これはどちらも正しいに相違なかった。
 この始めての自画像を描く時に気のついたのは、鏡の中にある顔が自分の顔とは左右を取りちがえた別物であるという事である。これは物理学上からはきわめて明白な事であるが写生をしているうちに始めてその事実がほんとうに体験されるような気がした。衣服の左前なくらいはいいとしても、また髪の毛のなでつけ方や黒子《ほくろ》の位置が逆になっているくらいはどうでもなるとしても、もっと微細な、しかし重要な目の非対称や鼻の曲がりやそれを一々左右|顛倒《てんとう》して考えるという事は非常に困難な事である。要するに一面の鏡だけでは永久に自分の顔は見られないという事に気がついたのである。二枚の鏡を使って少し斜めに向いた顔を見る事はできるだろうがそれを実行するのはおっくうであったし、また自分の技量で左右の相違をかき分ける事もできそうになかった。そんな事を考えなくてもただ鏡に映った顔をかけばいいと思ってやっているうちに着物の左衽《ひだりおくみ》のところでまたちょっと迷わされた。自分の科学と芸術とは見たままに描けと命ずる一方で、なんだか絵として見た時に不自然ではないかという気もするし、年取った母がいやがるだろうと思ったので、とうとう右衽《みぎおくみ》にごまかしてしまったが、それでもやっぱり不愉快であった。
 この自画像No.[#「No.」は縦中横]1は恐ろしくしわだらけのしかみ面《づら》で上目に正面をにらみつけていて、いかにも性急なかんしゃく持ちの人間らしく見えるが、考えてみると自分にもそういう資質がないとは言われない。
 それから二三日たってまた第二号の自画像を前のと同大の板へかいてみた。今度は少し顔を斜めにしてやってみると、前とは反対にたいへん温和な、のっぺりした、若々しい顔ができてしまった。妻や子供らはみんな若すぎると言って笑ったが母だけはこのほうがよく似ていると言った。母親の目に見える自分の影像と、子供らの見た自分の印象とには、事によったら十年以上も年齢の差があるかもしれない。それで思い出したが近ご
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