こなった絵をすぐに見ないではいられない。
 あまり自分が熱中しているものだから、家内のものは戯れに「この絵は魂がはいっているから夜中に抜け出すかもしれない」などと言って笑っていた。ところがある晩床の中にはいって鴨居《かもい》にかけた自画像をながめていると、絵の顔が思いがけもなくまたたきをするような気がした。これはおもしろいと思って見つめるとなんともない。しかし目をほかへ転じようとする瞬間にまたすばやくまたたくように見えた。これはたぶん有りがちな幻覚かもしれない。プーシキンの短編にもカルタのスペードの女王がまたたきをする話があるが、とにかくわれわれの神経が特殊な状態に緊張されると、こんな錯覚が生じるものと見える。それよりも不思議な錯覚は、夜床の中で目をねむって闇《やみ》の中を見つめるようにすると、そこに絵の顔が見えて来る事である。始めて気のついた時はハルシネーションのようにはっきり見えたが、その後はただぼんやり、しかしそれが画像の顔だという事がわかるくらいに現われたり消えたりした。生理光学でよく研究されている残像《ナハビルド》という現象はあるが、それは通例実物を見つめた後きわめて少時間だけにとどまるし、また通例|陽像《ポジチーフ》と陰像《ネガチーフ》とが交互に起こるものである。このように長時間の後に残存してしかも陽像のみ現われるというのはまだ読んだ事も聞いた事もなかった。おそらくこれは生理的ではなくて、病理的に神経の異常から起こるハルシネーションの類だろうが、それにしても妙なものである。人殺しをしたものが長い年月の後に熱病でもわずらった時に殺した時の犠牲者の顔をありあり見るというが、それはおそらく自分の見た幻覚と類した程度のものが見えるのではあるまいかと思った。
 もう一つ不思議な錯覚のようなものがあった。ある日例のように少しずつ目をいじり口元を直ししているうちに、かいている顔が不意に亡父の顔のように見えて来た。ちょうど絵の中から思いがけもなく父の顔がのぞいているような気がして愕然《がくぜん》として驚いた。しかし考えてみるとこれはあえて不思議な事はないらしい。自分はかなりに父によく似ていると言われている、自分はそうとは思わないがどこかによく似た点があるに相違ない。自分の顔のどこかを少しばかりどうか修正すれば父の顔に近よりやすい傾向があるのだろう。それで毎日いろいろに直したり変えたりしているうちには偶然その「どこか」にうまくぶつかって、主要な鍵《かぎ》に触れると同時に父の顔が一時に出現するのであろう。
 それから考えてみるに自分が毎日筆のさきでいろいろさまざまの顔を出現させているうちには自分の見た事のない祖先のたれやそれの顔が時々そこからのぞいているのではないかという気がしだした。実際時々妙に見たような顔だという気のする事さえある。
 人間の具体的な個々の記憶や経験はそのままに遺伝するものではないだろうが、それらを煎《せん》じつめた機微なある物が遺伝しているので、そのためにこのような心持ちを起こさせるのではあるまいか。漱石先生の「趣味の遺伝」はまさにこういう点に触れたもののようにも思われる。ラフカディオ・ハーンの書いたものの中にもこのような考えが論じてあった。われわれの祖先を千年前にさかのぼると、今の自分というのはその昔の二千万人の血を受け継いでいる勘定だそうである。そうしてみると自分が毎日こしらえているいろいろの顔は、この二千万人のだれかの顔に相当するかもしれない。こんな事を考えておかしくも思ったが、同時に「自分」というものの成り立ちをこういう立場から、もう一度よく考えてみなければならないと思った。なんだか独立な自分というものは微塵《みじん》に崩壊《ほうかい》してしまって、ただ無数の過去の精霊が五体の細胞と血球の中にうごめいているという事になりそうであった。
 この第三号の自画像はまずどうにか、こうにか仕上げてしまった。ほんとうの意味ではいつまでかかっても「仕上がる」見込みのない事がわかって来たから、ここらでまず一段落ついた事にしてしばらく放置してみる事にした。バックに緑色の布のかかった箪笥《たんす》があって、その上に書物や新聞の雑然と置いてあるのがいかにもうるさくて絵全体を俗悪にしてしまうから、あとからすっかり塗りつぶしてそのかわりに暗緑色の幕をたれたようなぐあいに直してみた。そうしたら顔が急に引き立って浮き上がって来た。のみならずそれまでは雑誌の口絵にでもありそうな感じのあった絵が、この改造のためにいくらか落ちついた古典的といったような趣を生じた。そして色の対照の効果で顔の色の赤みが強められるのであった。しかしまた同時に着物がやはり赤っぽく見えだして気に入らなくなったが、もうそれを直すだけの根気がなくなってそのままにしてしま
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