て任意に開閉され、また頭を動かすことなしにある程度までは自由に左右上下に動かされる。しかし耳は耳だけではそういう自由をもたない。この事実にもいろいろな意味があるが、主要な目的論的意義はやはり光と音との本質的差異と連関している。しかしここではそれは別問題として、単にこの事実とトーキーの関係を考えてみる。
 音が聞こえてから、目でその音源を追究する代わりに、カメラを回《パン》してそれを追究する。これはよくやる手法である。それがうまく行っている場合には、観客は実際自分の目がそっちへ向くように感じる。しかし実は動かぬスクリーンを見つめているのである。この効果の最も著しく感ぜられる場合は、たとえば茂みの中を鉄砲を持って前進する猟者を側面から映写しながら追跡する場合である。スクリーンと自分の目とが静止しているとは思われなくて、スクリーンが猟者といっしょに進行するのを、絶えず目を横に動かして追跡しているとしか感じられない。おそらく実際眼球が周期的に動くのではないかと思われる。ところが音響の場合には、これに相当するような錯覚を起こすことはむつかしい。それができるくらいなら耳も、目と同じようにクリクリ動
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