実に適切な例を使って説明するという行き方であり、また如何なる教科書とも類を異にしたオリジナルなものであったという事は同君の講義を聞いた高弟達の異口同音の証言によって明らかである。
 学会などにおけるディスカッション振りにも、やはり優れた頭脳と蘊蓄《うんちく》を示して、常に「最後の言葉」を話す人であったそうである。
 学生の卒業論文などについても指導甚だ懇切であった。初めにはいきなり酷く叱られて慄《ふる》え上がるが、教えを受けて引下がるときは皆嬉々として引下がったという話である。卒業後の就職などについても労を惜しまず面倒を見た。また、すべての人の長所を認識して適材を適処に導く事を誤まらなかった。晩年大学蹴球部の部長をつとめていたが、部の学生達は君を名づけて「オヤジ」と云っていた。部内の世話は勿論、部員学生の一身上の心配までした。
 鉄腸|居士《こじ》を父とし、天台道士を師とし、木堂翁《ぼくどうおう》に私淑していたかと思われる末広君には一面気鋒の鋭い点があり痛烈な皮肉もあった。若い時分には、曲ったこと、間違ったことと思う場合はなかなか烈しく喰ってかかることもあったが、弱いものにはいつもやさしかった。婢僕《ひぼく》などを叱ったことはほとんどなかったそうである。親思いで、子煩悩で、友をなつかしがった。
 若い時分キリスト教会に出入りして道を求めたが得る所がなかったと云っていた。禅に志して坐禅をやったことがあったが、そこにも求めるものは得られなかった。晩年には真宗の教義にかなり心を引かれていたそうである。
 学生時代には柔道もやり、またボートの選手で、それが舵手《だしゅ》であったということに意義があるように思われる。弓術も好きであって、これは晩年にも養生のための唯一の運動として続けていたようである。昔は将棋を試みた事もあり、また筆者などと一緒に昔の本郷座で川上、高田一座の芝居を見たこともありはしたが、中年以後から、あらゆる娯楽道楽を放棄して専心ただ学問にのみ没頭した。人には無闇に本を読んでも駄目だと云ってはいたが、実によく読書し、また人の論文でもよく目を通した。読み方も徹底的で、腑《ふ》に落ちないところはどこまでも追究しないと気がすまないという風であった。朝は寝坊であったが夜は時には夜半過ぐるまで書斎で仕事をしていたそうである。たまにはラジオで長唄や落語など聴く事もあった。西
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