工学博士末広恭二君
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)重恭《しげやす》

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(例)工学博士|末広恭二《すえひろきょうじ》君

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 昭和七年四月九日工学博士|末広恭二《すえひろきょうじ》君の死によって我国の学界は容易に補給し難い大きな損失を受けた。
 末広君の家は旧宇和島藩の士族で、父の名は重恭《しげやす》、鉄腸《てっちょう》と号し、明治初年の志士であり政客であり同時に文筆をもって世に知られた人である。恭二君はその次男で、兄は重雄、法学博士で現に京都大学教授である。恭二君は明治十年十月二十四日東京で生れ、芝桜田小学校から日本中学校に入り故杉浦重剛氏の薫陶を受けた。第一高等学校を経て東京帝国工科大学造船学科へ入学し、明治三十三年卒業した。高等学校時代厳父の死に会い、当時家計豊かでなかったため亡父の故旧の配慮によって岩崎男爵家の私塾に寄食し、大学卒業当時まで引きつづき同家子弟の研学の相手をした。卒業後長崎三菱造船所に入って実地の修業をした後、三十四年に帰京して大学院に入り、同時に母校の講師となった。その当時理科大学物理学科の聴講生となって長岡博士その他の物理学に関する講義に出席した。翌三十五年助教授となり、四十二年応用力学研究のため満二年間独国及び英国へ留学を命ぜられ、これと同時に工学博士の学位を授けられた。四十四年帰朝後工科大学教授に任ぜられ、爾来《じらい》最後の日まで力学、応用力学、船舶工学等の講座を受持っていた。大正七年三菱研究所の創立に際してその所長となったが、その設立については末広君が主要な中心人物の一人として活動した事は明白な事実である。大正十二年関東大震災以前から既に地震学に興味をもっていたが、大震災の惨害を体験した動機から、地震に対する特殊の研究機関の必要を痛感し、時の総長|古在由直《こざいよしなお》氏に進言し、その後援の下に懸命の努力をもって奔走した結果、遂に東京帝国大学附属地震研究所の設立を見るに到った。爾来最後まで同所長事務取扱の職に留まってこの揺籃《ようらん》時代の研究所の進展に骨折っていた。昭和二年には帝国学士院会員となった。
 昭和六年の秋米国各大学における講演を頼まれて出張
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