洋音楽は自分では分らないと云っていたが、音楽に堪能な令息|恭雄《やすお》氏の話によると相当な批判力をもっていたそうである。
運動で鍛えた身体であったが、中年の頃赤痢にかかってから不断《ふだん》腸の工合が悪かった。留学中など始終これで苦しみ通していた。そのせいでもあるまいが当時ドイツの風俗、人情、学風に対する色々な不満を聞かされた記憶がある。しかし英国へ渡ってからは彼の国の風物がすっかり気に入って喜んでいたようであった。それが後年盲腸の手術を受けてからすっかり能《よ》くなった。晩年には始終神経衰弱の気味があったが、これはおそらく極度の勤勉の結果であろうと想像された。
米国から講演の依頼を受けた時にも健康の点でかなり躊躇していたが、人々もすすめたので思い切って出かけたのであった。最近に出版された John R. Freeman : Earthquake Damege and Earthquake Insurance を見ると、末広君が米国に招かれるに到った由来が明らかになっている。この本の第二十二章に地震研究方針について米国学界への著者の提案が列挙してある。その冒頭に、先ず有能な学者を日本に派遣して大学地震研究所におけるあらゆる研究の模様を習得せしめよということ、次に末広所長を米国に迎えて講演させ、また米国における将来の研究方針についてその助言を求め、また末広式の地震分析器を各所に据え付けて地盤の固有振動の検出を試みよといったようなことが書いてある。巻末に貼紙として添付された刷物には、末広君の講演の梗概と著者の Some After−thoughts が述べてある。この書の著者は米国在来のやり方の不備に飽き足らず末広君の色々な考えにすっかり共鳴したからのことと考えられるのである。同君帰朝後筆者が逢った時に「反響はどうだった」と聞いたら「少しはこちらの研究も刺戟にはなっているらしいね」という答であった。
この講演の旅は末広君にはかなり愉快な旅であったらしくも思われるが、しかしやはり身体にはこたえたではないかと思われる。
墓は染井の墓地にある。戒名は真徹院釈恭篤居士である。
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(以上は匆卒《そうそつ》の間に筆をとった一葉の素描のようなものに過ぎないのであって、色々の点で間違いや思い違いがありはしないかと気遣わしい。読者のうちでそれらの誤謬を発
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