》は思想のニコルが直角だけ回ったようなものかもしれない。使徒ポールの改宗なども同様な例であろう。耶蘇《やそ》の幽霊に会ってニコルが回ったのである。しかしどちらへ曲げても結局偏光は偏光である。すべての人間が偏光ばかりで物を見ないで、かたよらぬ自然光でも物を見るような時代がもし来れば、あらゆるデマゴーグは腕をふるう機会を失うであろう。
二 つるばらと団扇とリベラリスト
鉢植《はちう》えのつるばらがはやると見えて至るところの花屋の店に出ている。それが、どれもこれも申し合わせたようにいわゆる「懸崖《けんがい》作《づく》り」に仕立てたものばかりである。同じ懸崖にしても、少しはなんとかちがった格好をしたのがあってもよさそうに思われるが、どれを見てもまるで鋳型に入れたようなもので、ばらの枝がみんな窮屈そうな顔をしてからみ合っているのである。こんなにはやらない前の懸崖作りはもう少しリベラリスティックな枝ぶりを見せていたようである。
来客用の団扇《うちわ》を買おうと思って、あちこち物色してみて気のついたことは、われらの昔ふうの団扇の概念に適合するようなものがほとんど影をかくしたことであ
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