大きなバケツか何かで、どんどん日本海へくみ込むかと思わせるようになっているのである。そのほうがなるほどたしかにおもしろいには相違ないのである。一種の芸術としては実に感嘆すべきものであるが、犠牲になる学者の難儀もまた少々ではないのである。
 この術は決して新しいものではなくて、古い古い昔から、時には偉大なる王者や聖賢により、時にはさらにより多く奸臣《かんしん》の扇動者によって利用されて来たものである。前者の場合には世道人心を善導し、後者の場合には惨禍と擾乱《じょうらん》を巻き起こした例がはなはだ多いようである。いずれもとにかく人間の錯覚を利用するものである。
 もしも人間の「目」が少しも錯覚のないものであったら、ヒトラーもレーニンもただの人間であり、A一A事件もB一B事件も起こらず、三原山《みはらやま》もにぎわわず、婦人雑誌は特種を失い、学問の自由などという言葉も雲消霧散するのではないかという気がする。しかしそうなってははなはだ困る人ができてくるかもしれない。「錯覚」を食って生活している人がどのくらいあるかちょっと見当がつかないのである。また錯覚からよびさまされて喜ぶ人はほとんどまれであ
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