さんしゅ》検査の御役人が帰るのだなと合点がいった。宿の定さんも、二階で泊った女づれのハイカラも来る。頬の恐ろしく膨《ふく》れた、大きなどてらを着た人相のよくない男が艫《とも》の甲板の蓆《むしろ》へ座をしめてボーイの売りに来た菓子を食っている。その向いに坐った目の赤いじいさんと相撲《すもう》の話をしている。あるいは相撲取かも知れぬが髪は二月前に刈ったと云う風である。その隣には五、六人、若い娘も二人ほど交じっている。機関長室には顔の赤い人の好さそうなのが航海日誌と云いそうなものへ何か書いている。ここへ色の青い恐ろしく痩せた束髪の三十くらいの女をつれた例の生白いハイカラが来て機関長と挨拶をしていたが、女はとうとうこの室の寝台を占領した。何者だろう。黒紋付をちらと見たら蔦《つた》の紋であった。宿の二階から毎日見下ろして御なじみの蚕種検査の先生達は舳《へさき》の方の炊事場の横へ陣どって大将らしき鬚《ひげ》の白いのが法帖様《ほうじょうよう》のものを広げて一行と話している。やっと出帆したのが十二時半頃。甲板はどうも風が寒い。艫の処を見ると定さんが旗竿へもたれて浜の方を見ながら口笛を吹いているからそこ
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