、学問など出来ぬようになれば、それだけ自分の夢みているような無為《むい》の生涯に近づくのではあるまいかと考えたりした。田舎に少しばかりの田地があるから、それを生計のしろとして慰みに花でも作り、余裕があれば好きな本でも買って読む。朝|一遍《いっぺん》田を見廻って、帰ると宅《うち》の温かい牛乳がのめるし、読書に飽きたら花に水でもやってピアノでも鳴らす。誰れに恐れる事も諛《へつら》う事も入らぬ、唯我独尊《ゆいがどくそん》の生涯で愉快だろうと夢のような呑気《のんき》な事を真面目に考えていた。それで肺炎から結核になろうと、なるまいと、そんな事は念頭にも置かなかった。肺炎は必ずなおると定《きま》ったわけでもなし、一つ間違えば死ぬだろうに、あの時は不思議に死と云う事は少しも考えなかったようである。自分は夭死《ようし》するのだなと思った事はあったが、死が恐ろしくてそう思ったのではない。夭死と云う事が、何だか一種の美しい事のような心持がしたし、またその時考えていた死と云うものは、有が無になるような大事件ではなく、ただ花が散ってその代りに若葉の出るようなほんのちょっとした変り目で、人が死んでも心はそこらの
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