れる。この最後の ba は時によりただのbによって響きを失うことはあるのである。
 名古屋《なごや》へんの言葉で怒ることをグザルというそうであるが、マレイでは gusari となっている。土佐《とさ》の一部では子供がふきげんで guzu−guzu いうのをグジレルと言い、またグジクルという。アラビアでは「ひどく怒らせる」が 〔gha_za〕 である。
 ロシアの「怒り」gniev はギリシアの動詞 aganaktein の頭部に似ている。古事記の「いごのふ」にも似ている。gn をロシア流に hn にする一方で、「忿怒《ふんぬ》」から「心」を取り去って、呉音で読めば hnn である。
 英語の gnarl は「うなる」に通じる。「がなる」にも通じる。英語の vex はLの uehere に関係し「運搬」の意がありサンスクリトの vah から来たとある。日本でもオコルとオクルが似ているのと相対しておもしろい。hは往々khまたkに通じるから uehere と uokoru とはそれほど遠く離れていないのである。weigh もやはり縁があるとの事である。vah は「負う」に通じる。
 腹を立てる、腹立つというのはあて字であろうと思われる。サンスクリトの krudhyati のkをhで置き換えるとともかくも hrdt という音列を得られる。これを haradati の子音と比べると同一である。偶然とするとかなり公算の少ない場合の一致である。ロシアの serditi もやはりいくらか似ているのである。苛立《いらだ》つが irritate(L.irritare) に似ていることは明白である。
「あらぶる神」の「アラブル」がLに rabere = to rage に似ていることも事実である。

「床屋」が何ゆえに理髪師であるか不思議である。「髪結床《かみゆいどこ》」から来たかと思われる。その「床」がわからない。
 マレイ語で頭髪を剃《そ》るのは chukor であり女の髪を剃るのが tokong である。また蘭領《らんりょう》インドでは「店」が toko である。
 マレイの理髪師は tukang chukor また tukang gunting である。
 アラビアでは「店」が dukkan, ペルシアでも dukan である。ペルシアの床屋さんは dallak である。
 ギリシアで剃るのは xurein でわが suri に通じる。髪を切る意味の cheirein は「切る」「刈る」に通じる。
 Skt. kshura は剃刀《かみそり》。krit は切るであるとすると不思議はない。
 おもしろいことは、土佐で自分の子供の時代に、紙鳶《たこ》の競揚をやる際に、敵の紙鳶糸を切る目的で、自分の糸の途中に木の枝へ剃刀の刃をつけたものを取り付ける。この刃物を「シューライ」と名づける。これは前記のサンスクリトの「クシューラ」とよく似ている。これはたしかに不思議である。
 床屋も不思議だがハタゴヤもなぜ旅館だかわからない。
 ギリシアの宿屋が pandocheion でいくらか似ているのはおもしろい。パドケヤとハタゴヤである。pan と dechomai, すなわちだれでも接待する意だそうである。衆生を済度する仏がホトケであるのは偶然の洒落《しゃれ》である。

 ラテンで「あるいはAあるいはB」という場合に alius A, alius B とか、alias A, alias B とか、また vel A, vel B という。alius と vel とは別物であるのに、どちらも日本の「アル」に似ているからおもしろい。英語の or でも少しは似ている。Skt. の「または」「あるいは」は athawa である。

 ロシアで「すなわち」というような意味で、znatchiti を使う。日本の snaati と似ている。
 また tak kak というのがいろいろの意味に使われるが whereas の意味では、「それはそうととにかく」の「兎角《とかく》」に通じなくない。兎《うさぎ》の角《つの》ではどうにも手に合わない。

 ドイツの noch(=nun auch) が日本語の naho に似ている。イタリアの eppure は日本の「ヤッパリ」と同意義である。

 因果関係はわからなくても似ているという事実はやはり事実である。
 ことばの事実を拾い集めるのが言葉の科学への第一歩である。玉と石とを区別する前には、石も一応採集して吟味しなければならない。石を恐れて手を出さなければ玉は永久に手に入らない。
[#地から2字上げ](昭和八年四月、鉄塔)

   三

 春(ハル)のラテン語が ver であるが、ポルトガル語の 〔vera:o〕 は夏である。ペルシア
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