出す。Sは口ごもって、ひどくはにかんだように物を言う癖があったのである。幼い岸田|劉生《りゅうせい》氏があるいはそのころ店先をちょこちょこ歩いていたかもしれないという気がする。
新橋《しんばし》詰めの勧工場がそのころもあったらしい。これは言わば細胞組織の百貨店であって、後年のデパートメントストアの予想《アンチシペーション》であり胚芽《エンブリオ》のようなものであったが、結局はやはり小売り商の集団的|蜂窩《ほうか》あるいは珊瑚礁《さんごしょう》のようなものであったから、今日のような対小売り商の問題は起こらなくても済んだであろう。とにかく、これは、田舎者《いなかもの》が国へのみやげ物を物色するには最も便利な設備であった。それから考えると、東京市民の全部がことごとく「田舎者」になった今日、デパートの繁盛するのは当然であろう。ただ少数な江戸っ子の敗残者がわざわざ竹仙《ちくせん》の染め物や伊勢由《いせよし》のはき物を求めることにはかない誇りを感ずるだけであろう。しかしデパートの品物に「こく」のある品のまれであることも事実である。
明治三十二年の夏、高等学校を卒業して大学にはいったのでちょうど
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