ろ貪欲《どんよく》に享楽していた。それが今、中年を過ぎた生涯《しょうがい》の午後に、いつなおるかわからない頑固な胃病に苦しんでいる彼の心持ちは、だいぶちがったものであった……のみならず今度の病気は彼の外出を禁じてしまったので前の病気の時のように、自由に戸外の空気に触れて心を紛らす事ができない。使えば使われそうに思われるからだを、なるべく動かさないようにしていなければならないのが苦痛であった。それでもはたで見るほど退屈はしていなかった。彼の読書欲は病気になって以来いっそう増進して、ほとんど毎日朝起きるとから夜寝るまで何かしら読んでいた。そんなに本ばかり読んでいては病気にさわりはしないかと言って、細君や老母が心配して注意する事もあったが、彼自身にはそんな心配はないと言いはっていた。実際彼の頭脳は病気以来次第にさえて来て、終日読書していても少しも疲れないのみならず、自分でも不思議に思うほど鋭く働いていた。何か読んでもそこに書いてある事の裏の裏まで見通されるような気がしていた。読んで行く一行一行に、あらゆる暗示が伏兵のように隠れていて、それが読むに従って、飛び出して襲いかかるのであった。それら
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