刑務所へはいるほどの精力がうらやましく、富豪になって首を釣るほどの活力がうらやましい。[#地から1字上げ](昭和九年二月、渋柿)
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曙町より(十九)
映画「カンチェンジュンガ」を見た。芝居気の交じらないきまじめな実写の編輯は気持ちのいいものである。
インドの山中の山家が日本のによく似ているのをおもしろくもなつかしく思った。それから、目的の山に近づく前に一度深い谷へ降りて行く光景の映写されるのもおもしろかった。
人間の世界を離れた高山に思いがけなく一寸法師の夫婦が子供を一人養っているのを発見して撮影している。これを見たとき「人生の意義」などというものが文明国の人間などになかなかそう簡単にわかるものではないという気がした。
数十頭のヤク牛が重い荷を負わされて雪解けの谿流を徒渉《としょう》するのを見ていたら妙に悲しくなって来た。牛もクリーも探検隊の人々自身もなんのためにこの辛酸《しんさん》を嘗めているかは知らないのである。
まっ自な雪原を横切る隊列の遠望写真を見たときは、人間も虫もこんな大自然の前にはあまり同等なものと思われた。雪崩《なだれ》の実写は驚嘆すべき見ものであるが山の神様の手からただひとつまみの雪がこぼれただけである。
大きな雲の塊《かたまり》が登山者に迫って来るのを見ていたら、その雲が何かものを言っているような気がして来た。その言っていることがはっきりわかったような気がしたが、しかし、それはやはり人間の言葉ではどうしても言い現わせないものであった。
ぜひ一遍見て来たまえ。そうしてこの「雲の言葉」を句にしてくれたまえ。[#地から1字上げ](昭和九年四月、渋柿)
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曙町より(二十)
有名なエノケンをはじめて映画で見た。これまで写真を見ただけで、どうしても実物の芝居を見る気がしなかったが、映画で見ると予想したほどに不愉快ではなく、やはりときどきは笑わされてしまった。
彼にはやはりどこかに「強い」ところがあると見える。それが少なくも彼としての「成効」の原因であろう。とにかく見物が大丈夫笑ってくれるという自信をもっているらしい。
自信のないことを自覚している演芸ほど見ていて苦しいものはない。しかし、そうかと言って、自信するだけの客観的内容のないただ主観的なだけの自信をふり回す芸も困ることはもちろんである。
至芸となると、演技者の自信が演技者を抜け出して観客の中へ乗り移ってしまう。エノケンもそれまでにはだいぶ距離がある。
二村《ふたむら》は両立する存在ではなくて従属し補充するだけの役目をしているようである。[#地から1字上げ](昭和九年六月、渋柿)
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星野温泉より
一年ぶりに星野温泉に来て去年と同じ家に落ち付いてみると、去年の夏と今年の夏との間に一年もたったという気がどうしてもしない。ほんの一週間ぐらい東京へ帰ってまた出て来たような気がする。もっともこれは、去年帰るときに子供らをのこして帰り、今年は先に子供らをよこしてあったので往き帰りの引っ越し騒ぎに関与しなかったからでもあるらしい。
しかし、なんだか、東京にいる間は「星野の自分」が眠っていてその間は「東京の自分」が活動しており、星野へ来るとはじめて「星野の自分」が眼を覚まして活動しだしたといったような気もする。
軽微なる二重人格症の症状とも言われるかもしれない。しかし、たとえばいろいろな月給生活者でも、勤め先における自分の生活と家庭における生活とはやはりある程度までは別の世界であり、その二つの世界ではやはりそれぞれ二つの別の自分があるのでははいかという気もする。[#地から1字上げ](昭和九年八月、渋柿)
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曙町より(二十一)
昭和九年八月十五日は浅間山火山観測所の創立記念日で、東京の大学地震研究所員数名が峯の茶屋の観測所に集合して附近の見学をした。翌十六日は一行の中の、石本《いしもと》所長と松沢《まつざわ》山口《やまぐち》両氏ならびに観測所主任の水上《みなかみ》氏と四人が浅間に登山したが、自分と坪井《つぼい》氏とは登らなかった。石本松沢山口三氏はその日二時十五分|沓掛《くつかけ》発の列車で帰京し坪井氏は三時五十三分で立ち、自分だけ星野温泉に居残った。
翌日の東京朝日新聞長野版を見ると、石本坪井両氏と寺田が登山し三人とも二時十五分の汽車で帰京したことになっていた。
その後、九月五日にまた星野温泉へ行って七日に帰京したのであるが、九月十三日の某新聞消息欄を見ると、吉村冬彦が軽井沢から帰京したことになっている。
これらの記事は事実の報道としてはみんな途方もないうそである。しかしこれをジャーナリズムの中にある「俳諧」と思って見れば別にたいした不都合はないかもしれない。うその中の真実が真実の真実よりもより多く真実なのかもしれないからである。[#地から1字上げ](昭和九年十月、渋柿)
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曙町より(二十二)
越後のある小都会の未知の人から色紙《しきし》だったか絹地だったか送って来て、何かその人の家のあるめでたい機会を記念するために張り交ぜを作るから何か揮毫《きごう》して送れ、という注文を受けたことがあった。ただし、急ぐからおよそ何日ごろまでに届くように、という細かい克明な注意まで書き添えてあった。
そのままにして忘れていたらやがて催促状が来て、もし「いやならいやでよろしく」それなら送った品を返送せよというのであった。それでびっくりしてさっそく返送の手続きをとったことであった。
それから数年たった近ごろ、また同じ人からはがき大の色紙を二、三枚よこして、これに何か書いてよこせ、「大切に保存するから」と言って来た。
ちょっと日本人ばなれがしている。アメリカのウォール街あたりの人のように実にきびきびと物事をビジネス的に処理する人らしく思われる。
ただ、こういう気質の人のもつ世界と自分らの考えている俳句の世界とがどういうふうにつながり、どういうぐあいに重なり合っているかという事がちょっと不思議に思われたのであった。
今度は催促されないように折り返し色紙を返送した。[#地から1字上げ](昭和九年十二月、渋柿)
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曙町より(二十三)
安倍能成《あべよししげ》君が「京城《けいじょう》より」の中で「人柱《ひとばしら》」ということが西洋にもあったかどうかという疑問を出したことがあった。近ごろルキウス・アンネウス・フロルスの「ローマ史摘要」を見ていたら、ロムルスがその新都市に胸壁を築いたとき、彼と双生児のレームスが「こんなけちな壁なんかなんにもならない」と言ってひととびに飛び越して見せた。そのために結局レームスは殺されたのであるが、しかしロムルスの命令によって殺されたかどうかは不明だとある。そうして「いずれにしてもレームスは最初の犠牲《ヴィクティマ》であって、しかして彼の血をもって新市の堡塁を浄化した」とある。
この話は人柱とは少しちがうが、しかしどこかしらだいぶ似たところがある。
豚や牛のように人間を殺して生贄《いけにえ》とすることは西洋には昔はよくあったらしいが、それが神をあがめ慰めるだけでなく、それによって何か難事を遂げさせてもらうための先払いの報酬のような意味で神々にささげる事もあったとすれば、結局は人柱と同じことになるのではないかと思う。
同じ書物にまた次のような話もある。
あまり評判のよくないほうで有名なローマの最後の王様タルキヌスがほうぼうで攻め落とした敵の市街からの奪掠物で寺院を建てた。そのときに敷地の土台を掘り返していたら人間の頭蓋骨が一つ出て来た。しかし人々はこれこそこの場所が世界の主都となる瑞兆《ずいちょう》であるということを信じて疑わなかったとある。われわれの現在の考え方だと、これはなんだかむしろ薄気味の悪い凶兆のように思われるのに、当時のローマ人がこれを主都のかための土台石のように感じたのだとすると、その考え方の中にはどこかやはり「人柱」の習俗の根柢《こんてい》に横たわる思想とおのずから相通ずるものがあるような気がする。
以上偶然読書中に見つけたから安倍君の驥尾《きび》に付して備忘のために誌《しる》しておくことにした。[#地から1字上げ](昭和十年三月、渋柿)
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曙町より(二十四)
ある大きな映画劇場の入場料を五十銭均一にしたら急に入場者が増加して結局総収入が増すことになったといううわさがある。事実はどうだか知らない。しかし、「五十銭均一」という言葉には何かしら現代の一般民衆に親しみと気楽さを吹き込むあるものがあるのではないかという気がする。むつかしい経済学上の理論などはわからないが、あの五十銭銀貨一枚を財布《さいふ》からつまみ出して切符売り場の大理石の板の上へパチリと音を立てるとすぐに切符が眼前に出現するところに一種のさわやかさがある。これが四十七銭均一でいちいち三銭のおつりをもらうのだったらどういうことになるか。相手がドイツ人かあるいは勘定の細かい地方の商売人だったらどうかわからないが、少なくも東京の学生のような観客層に対してはこの五十銭均一のほうが経済観念を超越した吸引力をもっていそうな気がする。
こんな事を考えていた時に偶然友人の経済学者に会ったので、五十銭銀貨の代わりに四十七銭銀貨を作って流通させたら日本の国の経済にどういう変化が起こるかという愚問を発してみた。これに対する経済学者の詳細な説明を聞いた時は一応わかったような気がしたが、それっきりきれいに忘れてしまった。
今までにずいぶんいろいろむつかしい事も教わったが、銭というものほど意味のわかりにくいものに出逢ったためしはないようである。[#地から1字上げ](昭和十年五月、渋柿)
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曙町より(二十五)
六月九日の日曜に家族連れで上野精養軒の藤棚の下へ昼飯を食いに行った。隣のテーブルにも家族づれの客が多い。小さな子供のいる食卓の上には子供の数だけのゴム風船が浮游《ふゆう》している。うちの子供らも昔はよくこうした所で風船をもらった時代があったが、今はもうみんなおとなになってしまって今日は新しい夏着夏帽夏化粧である。蓄音機のダイナミックコーンからはジャズや流行小唄《はやりこうた》が飛び出しておりからの鐘楼の時の鐘の声に和している。藤棚の下には中央の噴水をめぐりビーチパラソルの間をくぐってさわやかな初夏の風が吹いている。妙に昔のことが想い出される。
精養軒の玄関にボーイが一人立って人待ち顔に入り口のほうをながめている。このボーイはここではもうずいぶん古い古参である。自分など覚えてからこのかたずっと勤続しているようである。今の世にこういう何十年一日のごとき人を見るとなんだかたのもしいようななつかしいような気がする。電車の車掌などにもずいぶん古いのがいるがそんなのを見ても同じような気がする。こんな人はやはりどこかいいところのある人間であろうと思われる。
上野から円タクを雇って深川の清澄公園《きよすみこうえん》へ行って見た。アルコウ会という会と、それから某看護婦会との園遊会でにぎわっている。関東震火災の数日後このへんの焼け野を見て歩いたとき、この庭園の周囲の椎《しい》かなんかの樹立ちが黒焦げになって、園内は避難民の集落になっていた、その当時の光景を想い出した。あの震災のときにはまだ生まれていなかったような年ごろの子供らがおおぜい遊んでいる。
清洲橋《きよすばし》の近くの一銭蒸汽の待合所を目当てに河岸《かし》を歩いていたら意外な所に芭蕉庵《ばしょうあん》旧跡と称する小祠《しょうし》に行き当たった。そうしてこの偶然の発見のおかげで自分の今まで描いていた芭蕉庵の夢が一度に消えてしまった。
待合所で船を待っていたら、退屈しているらしい巡査が話しかけた。仏国映画に出るプレジャンという俳優に似た顔をしている。「これから土左衛門《どざえもん》が多いですよ」と
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