いう。七割は自殺者だそうである。新聞には出ないが三原山よりは多いという。
 一銭蒸汽の中で丸薬の見本を二粒ずつ船客一同に配っておいてから、そろそろと三百何十粒入りの袋を売りだす女がいた。どこへ行っても全く油断のできない世の中である。
 言問《こととい》まで行くつもりであったが隅田川の水の臭気にあきたので吾妻橋《あづまばし》から上がって地下鉄で銀座まで出てニューグランドでお茶をのんだ。
 近ごろの大旅行であった。舟車による水陸の行程約七里半、徒歩ならゆっくり一日がかりのところである。
 自分の生まれない前に両親が深川|西六間堀《にしろっけんぼり》に住まっていたころ、自分のいちばん末の姉を七歳で亡くして休日のたびに谷中《やなか》の墓地へ通ったという話を聞かされたことがあった、それを今日ふいと思い出した、ほとんど一日がかりの墓参りであったらしい。
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なつかしや未生以前《みしょういぜん》の青嵐[#地から1字上げ](昭和十年七月、渋柿)
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   曙町より(二十六)


 風呂桶《ふろおけ》から出て胸のあたりを流していたら左の腕に何かしら細長いものがかすかにさわるようなかゆみを感じた。女の髪の毛が一本からみついているらしい。右の手の指でつまんで棄てようとするとそれが右の腕にへばりつく。へばりついた所が海月《くらげ》の糸にでもさわったように痛がゆくなる。浴室の弱い電燈の光に眼鏡なしの老眼では毛筋がよく見えないだけにいっそう始末が悪い。あせればあせるほど執念深くからだのどこかにへばりついて離れない。そうしてそれがさわった所がみんなかゆくなる。ようやく離れたあとでもからだじゅうがかゆいような気がした。
 風呂の中の女の髪は運命よりも恐ろしい。[#地から1字上げ](昭和十年九月、渋柿)
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   曙町より(二十七)


 子供のときから夜具といえば手織り木綿《もめん》の蒲団《ふとん》にあまり柔らかくない綿のはいったのに馴らされて来たせいか今でもあまり上等の絹夜具はどうもからだに適しない、それでなるべくごつごつした紬《つむぎ》か何かに少し堅く綿をつめたのを掛け蒲団にしている。
 今度からだが痛む病気になって臥床《がしょう》したまま来客に接するのにあまり不体裁だというので絹の柔らかいのを用いることにした。ところがこの柔らかい絹蒲団というやつはいくら下からはね上げておいてもちょうど飴《あめ》か餅《もち》かのようにじりじりと垂れ落ちて来て、すっかりからだを押えつけあらゆるすきまを埋めてしまう。それでちょっとでも身動きしようとするとこの飴が痛むからだには無限の抵抗となって運動を阻止する。蠅取《はえと》り紙《がみ》にかかった蠅の気持ちはこんなものかという気がする。
 天網のごとく、夢魔のごとく、運命の神のごとく恐ろしいものは絹蒲団である。[#地から1字上げ](昭和十年十一月、渋柿)
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   短章 その二

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 美人と言えば女に限るようである。美醜は男をスペシファイする属性にならぬと見える。甘い辛いが絵の具の区別に役立たぬように。
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 宅《うち》の前に風呂屋ができて、いろいろな迷惑を感ずることがある。しかし、どんな悪いことにでも何かしら善いことがある。第一には、宅へ始めて尋ねて来る人にはこの風呂屋の高い煙突を目当てにして来るように教えるとわかりが早い。それから、第二には夜の門前が明るくなって泥坊《どろぼう》の徘徊《はいかい》には不便である。第三には、この風呂屋ができてから門前に近く新たに消火栓が設けられた。もっとも、これは近くに高官の邸宅があるおかげかもしれない。
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 睡蓮《すいれん》の花は昔から知っている。しかし、この花が朝開いて午後に睡《ねむ》るということは、今年自分の家でつくってみて始めて知った。睡蓮という名の所由がやっとわかったのである。水蓮などという当て字をかく人のあるのを見ると、これは自分だけの迂闊《うかつ》でもないらしい。人間ののんきさかげんがこんなことからもわかる。しかしまた人間の世智辛さがこれでわかる、とも言われるであろう。
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 三原山の投身者の記事が今日新聞紙上に跡を絶たない。よく聞いてみると、浅間山にもかなり多数の投身者があるそうであるが、このほうは新聞に出ない。ジャーナリズムという現象の一例である。
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「陸相官邸にて割腹」という大きな見出しの新聞記事がある。陸相が割腹したのかと思うと、陸相の官邸でだれかが割腹したのである。日本語の不完全を巧みに利用したジャーナリズムのトリックである。
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 夜中に眼が覚めた。どこかで「デンポー、デンポー」と言っているらしい声が聞こえる。それから五分もたつとまた同じような声が聞こえる。あまり長い間をおいてしばしば繰り返されるから不思議だと思って注意していると数町さきの通りを通る自動車の「ブ、ブー」という警笛が聞こえる。さっきの「デンポー」はやはり自動車の警笛であった。笛のうちには音色がかなり人声に似たのがあると見える。
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 犬吠岬《いぬぼうざき》の茶店の主人の話だそうである。三十年来の経験で、自殺者心中者はたいてい様子でわかる。思案にくれて懊悩《おうのう》しているようなのはかえって死なない。写真でも撮らせたり、ひどく元気よくはしゃいでいるのが怪しいということである。いったい死ぬほどに意気銷沈《いきしょうちん》したものなら首くくりの縄《なわ》を懸けるさえ大儀な気がしそうである。それをわざわざ遠く出かけて、しかも三原や浅間に山登りをする元気があるのは不思議なような気がする。こういう種類の自殺者は、悲観のためではなくてみんな興奮のために死ぬるのだろうと思われる。
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 第一相互館の屋上で夜の銀座をながめていたら、突然停電で屋上はまっ闇になり、同時に銀座の両側の街燈も消えたが、街壁を飾るネオンサインはみんな平気でともっていた。しばらくして、街燈が一度にともったが、自分らのいる屋上はまだまっ暗であった。そうして楼下の町でまずぱっと明るさが増して、しばらくしてからやっと屋上が点燈した。人間の中風《ちゅうぶう》のメカニズムを想い出すのであった。
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 電話が自働式に変わると同時に所属局が「小石川《こいしかわ》」から「大塚《おおつか》」に移り、さらにまた番号がもとより三〇〇〇だけ数を増した。なんだか自分のうちが遠い所へ持って行かれたような気がする。居《きょ》は心を移すというが、心は居を移すとも言われそうである。
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 去年の秋|手賀沼《てがぬま》までドライヴしたついでに大利根《おおとね》の新橋まで行ってみた。利根川の河幅はこの橋の上流の所で著しく膨大《ぼうだい》して幅二キロメートル半ほどの沼地になっている。それにただ一面に穂芒《ほすすき》が茂り連なって見渡す限り銀色の漣波《さざなみ》をたたえていた。実にのびのびと大きな景色である。橋のたもとの土手を下りて見上げると、この長さ一キロメートルのまっすぐなコンクリートの橋の下にそれと並行して下流の鉄道の鉄橋が見え、おりから通りかかった上り列車が玩具《おもちゃ》の汽車ででもあるように思われた。
 今までいっこう聞いたこともないこんな所にこんな絶景があると思うことはここに限らずしばしばある。そういう所はしかしたいてい絵にかいても絵にならず、写真をとってもしようのないようなところである。有名な名所になるための資格が欠けているのである。
 こういう所の美しさは純粋な空間の美しさである。それは空虚な空間ではなくて、人間にいちばんだいじな酸素と窒素の混合物で充填《じゅうてん》され、そうしてあらゆる膠質的《こうしつてき》浮游物で象嵌《ぞうがん》された空間の美しさである。肺臓いっぱいに自由に呼吸することのできる空気の無尽蔵の美しさなのである。
 往復ともに小菅《こすげ》の刑務所のそばを通った。刑務所の独房の中の数立方メートルに固く限られた空間を想像してみたときに、この大利根河畔の空間の美しさがいっそう強烈に味わわれるような気がするのであった。
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 昨年九月の暴風雨で東京の街路樹がだいぶいじめられた。たぶんいわゆる「塩風」であったためか、樹々の南側の葉が焦げたように黒褐色《こくかっしょく》に縮れ上がって、みじめに見すぼらしい光景を呈していた。丸《まる》の内《うち》の街路の鈴懸《すずかけ》の樹のこの惨状を実見したあとで帝劇へ行って二階の休憩室の窓からお堀《ほり》の向こう側の石崖《いしがけ》の上に並んだ黒松をながめてびっくりした。これらの松の針葉はあの塩風にもまれてもちっとも痛まないばかりかかえってこの嵐に会って塵埃《じんあい》を洗い落とされでもしたのか、ブラシでもかけたかと思うようにその濃緑の色を新鮮にして午後の太陽に照らされて輝いているように思われた。
 日本の海岸になぜ黒松が多いかというわけがはじめてはっきりわかったような気がしたのであった。
 国々にそれぞれ昔から固有なものにはやはりそれぞれにそれだけのあるべき理由があるのである。
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 昭和九年の十一月中旬には東京の丸の内のところどころの柳が青々として風になびいていた。その一方で銀杏《いちょう》はもうすっかりその黄葉をふるい落としているのであった。
 十月には武蔵野のどこかで桜が返り咲きに満開したそうである。十一月二十五日になってもまだ庭のカンナが咲き続けていた。
 植物でも季節の変調にだまされやすいのとそうでないのとあるらしい。
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 夏目先生のお弟子《でし》と見られている人がかなりおおぜいいるようである。この「お弟子」の意味がずいぶん漠然としていて自分にはよくわからない。少し厳密に分類するとこの「お弟子」の種類が相当たくさんにありそうである。古いほうでは松山の中学校で先生から英語を教わった人たちがある。その中でそれっきりもう直接には先生と交渉を失った人々もやはり弟子の一種である。またそうした人たちの中で後になって再び先生と密接な交渉をもつようになった人の中でもMN君のようにあらゆる意味で師事した人もあれば、またMB氏のように医師として接触した人もある。それからまた熊本高等学校時代に英語を教わった人々、その中で自分などのように俳句をも教わったために先生の私邸に出入することのできた果報ものもある。もしかすると逆に出入するために俳句を教わったのではないかという嫌疑《けんぎ》もなくはない。また先生の家に食客となって日常親しく先生の人に接近することのできた幸運の人たちもある。次には先生の東京時代に一高《いちこう》や大学で英語英文学を教わった広い意味での弟子たちがある。その中で先生の千駄木町《せんだぎちょう》時代にその門に出入した人たちがある。一方では英文学科以外の学生でそのころの先生の門下に参じた人もあるかと思われる。
 千駄木時代は先生の有名になり始めからだいたい有名になりきるまでの時代で、作品から言っても「猫」から「虞美人草《ぐびじんそう》」へかけての時代である。このころの先生にひきつけられて先生の膝下《しっか》に慕い寄ったお弟子にはやはりそれだけの特徴がありはしないかと思われる。短い西片町《にしかたまち》時代を経て最後の早稲田時代になると、もう文豪としての位地の確定した時代で、作品も前とはだいぶちがった調子のものになってしまっていた。この時代に新たに門下に参じた人々の中には千駄木時代の先生の要素に傾倒した人とまたこの時代の先生の新しい要素に牽引《けんいん》された人とがあっ
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