るユダヤ人」にもふさわしかるべき種類の夢である。
 大学構内、耐震家屋のそばを通っていると、枯れ樹の枝に妙な花が咲いていて散りかかる。
 見ると、その花弁の一つ一つが羽蟻のような虫である。
 そうして、それが人にふりかかると、それがみんな虱《しらみ》になって取り付くのである。
 そこへT工学士が来た。彼は今この虱のことについて学位論文を書いているというのである。
 そのうちにも、この「虱の花」はパッパッと飛んで来て、僕のからだに付くのである。
 あとで考えてみると、その二、三日前に地震研究所である人とこのT工学士についての話をしたことがある。
 またやはり二、三日前の新聞で、見合いの時に頭から虱が出たので縁談の破れた女の話を読んだことがあった。
 しかし枯れ木の花が虱に変わる、ということがどこから来たかなかなか思いつかれない。
 それはとにかく、この夢の雰囲気と、君の夢の雰囲気との対照がおもしろいと思うのでお知らせすることにする。[#地から1字上げ](昭和六年七月、渋柿)
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   曙町より(四)


 二日の日曜の午後に築地《つきじ》の左翼劇場を見に行った。
 だいぶ暑い日であった。
 間違えて、労働者切符の売り場へ行ったら「職場《しょくば》」のかたですか、と聞かれたが、なんのことかわからないで、ぼんやりしながら、九十銭耳をそろえて並べたら、「どうかすみませんがあちらでお求めを願います」とたいへんに親切丁寧に教えてくれた。
 資本主義の帝劇《ていげき》や歌舞伎座《かぶきざ》のいばった切符嬢とはたいした相違でうれしかった。
 入場してまず眼についたのは、カーテンの下のほうに「松屋」という縫い取りの文字で、これが少し不思議に思われた。
 観客はたいてい若い人が多く、旧式ないわゆる小市民の家庭のお嬢さんらしい女学生も、下町ふうな江戸前のおとなしい娘さんたちもいるのが特に目についた。
 中年の、もっともらしいおばさんたちもぽつぽつ見えた。
 男の中には、学生も多いが、中にはどうも刑事かと思うようなのもいた。
 みんな平気で上着を脱いでいるのは、これもなんとなく愉快であった。
 いわゆるナッパ服を着て、頭を光らせ、もみ上げを剃《そ》り上げた、眼の鋭い若者が二人来て隣に腰かけた。
 それがニチャニチャと止《やす》みなしにチューインガムを噛んでいる。
 アメリカ式チューインガムを尊崇することと、ロシア式イデオロギーを噛んで喜ぶこととは、全く縁のないことでもないかと思われた。
 それから三、四列前の腰掛けに、中年のインテリ奥様とでも言われそうなのが二人、それはまた二人おそろいでキャラメルらしいもの――噛み方でわかる――を噛んでいるのが、ちょっとおもしろい対照をなしていた。
 イデオロギーに砂糖がはいっているのである。
 芝居(?)「恐山鉱山《おそれやまこうざん》」を少し見てから降参して出てしまった。
 恐ろしいものである。
 今度会った時に話しましょう。[#地から1字上げ](昭和六年九月、渋柿)
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   曙町より(五)


 僕はこのごろ、ガラス枚を、鋼鉄の球で衝撃して、割れ目をこしらえて、その割れ方を調べている。
 はなはだばかげたことのようであるが、やってみるとなかなかおもしろいものである。
 ごく軽くたたいて、肉眼でやっと見えるくらいの疵《きず》をつけて、それを顕微鏡でのぞいて見ると、球の当たった点のまわりに、円形の割れ目が、ガラスの表面にできて、そこから内部へ末拡がりに、円錐形《えんすいけい》のひびが入っているが、そのひび破《わ》れに、無数の線条が現われ、実にきれいなものである。
 おもしろいことには、その円錐形のひびわれを、毎日のように顕徴鏡でのぞいて見ていると、それがだんだんに大きなものに思われて来て、今では、ちょっとした小山のような感じがする。
 そうしてその山の高さを測ったり、斜面の尾根や谿谷を数えたりしていると、それがますます大きなものに見えて来るのである。
 実際のこの山の高さは一|分《ぶ》の三十|分《ぶん》の一よりも小さなものに過ぎない。
 この調べが進めば、僕は、ひびを見ただけで、直径幾ミリの球が、いくらの速度で衝突したかを言いあてることができるであろうと思う。
 それを当てたらなんの役に立つかと聞かれると少し困るが、しかし、この話が、何か君の俳諧哲学の参考にならば幸いである。
 今まで、まだやっと二、三百枚のガラス板しかこわしていないが、少なくも二、三千枚ぐらいはこわしてみなければなるまいと思っている。
[#ここから3字下げ]
粟《あわ》一粒秋三界を蔵しけり[#地から1字上げ](昭和六年十一月、渋柿)
[#ここで字下げ終わり]
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   曙町より(六)


 小宮《こみや》君は葡萄一株拾ったそうだが、僕は小鳥を一羽拾った。
 このあいだかなり寒かった朝、日の当たった縁側に一羽のカナリヤが来て、丸くふくれ上がって、縁の端の敷居につかまっていた。
 人を見ても逃げもせず、かえって向こうから近寄って来た。
 どこかにしまってあるはずの鳥籠を探しているうちに、見えなくなったと思ったら、納戸《なんど》の中へはいり込んでいた。
 籠に入れてから、さっそく粟を買って来て、それを餌函《えばこ》に入れてやろうとしていると、もう籠の中からそれを見つけてしきりに啼き立て、早くくれとでもいうように見えた。
 菜っ葉をやると、さもうまそうについばんでは、くちばしを止まり木にこすりつけた。
 日向《ひなた》につるしてやると朗らかに鳴きだしたが、声を聞いてみると立派なローラーである。
 猫の「ボウヤ」が十月に死んでから、妙にさびしくなった家が、これでまた急ににぎやかになったような気がして、それからは、毎朝新しい菜っ葉をやっては、玉をころがすような朗らかなワーブリングを聞くのが楽しみであった。
 ところが、今朝家人がえさを取り替える際に、ちょっとの不注意で、せっかくのこの楽しみを再び空に遁《にが》してしまった。
 惜しいというよりはかわいそうな気がした。
 夕方家へ帰って見ると、見馴れぬ子猫が一匹いる。
 死んだ「ボウヤ」にそっくりの白い猫である。
 今朝、どこからか迷って来たのが、もうすっかりなついてしまって、落ち着いているのだそうである。
 それを聞いた時に、ちょっと不思議な気がした。
 どうも以前に一度、やはり小鳥が死ぬか逃げるかした同じ日に、子猫が迷い込んで来たことがあったような記憶がある。それと同じ出来事が、今日再び繰り返して起こったような気がするのである。
 しかし、どうもはっきりしたことが思い出せない。
 あるいはよくあるそういう種類の錯覚かもしれない。
 拾ったと思ったら無くする、無くしたと思ったらもう拾っている。
 おもしろいと思えばおもしろく、はかないと言えばはかなくもある。
 この猫をひざへのせて夕刊を読んでいたら号外が来て、後継内閣組織の大命が政友会総裁に降《くだ》ったとある。犬養《いぬかい》さんは総理大臣を拾ったのである。
 遁《に》げたカナリヤもだれかに拾われなければ餓え死ぬか凍え死ぬだろうと思う。[#地から1字上げ](昭和七年一月、渋柿)
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   曙町より(七)


 毎朝通る路次に小さなせいぜい二|室《へや》ぐらいの家がある。主人は三十五、六ぐらいの男だが時間のきまった勤めをもつ人とも見えず、たとえば画家とか彫刻家とでもいったような人であるらしい。それは表札が家不相応にしゃれた篆刻《てんこく》で雅号らしい名を彫り付けてあるからである。六、七年ほど前からポインター種の犬を飼っている。ほんの小さな小犬であったのが今では堂々としてしかもかわいい良い犬である。僕の記憶ではこの小犬とほぼ前後して細君らしい婦人がこの家に現われて、門口で張り物をしたり、格子戸《こうしど》の内のカナリアにえさをやったり、※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓《れんじまど》の下の草花に水をやったりしていた。犬の大きくなるにつれてこの細君がだんだんに肥満して二、三年前にはどうしても病気としか思われない異常の肥《ふと》り方を見せていたが、そのころからふっつりその姿が見えなくなって、そのかわりに薄汚い七十近いばあさんが門口でカナリアや草花の世話をしていた。どうも細君が大病かあるいは亡《な》くなったのではないかと思われたのであるが、犬のジョンだけは相変わらずいつものどかな勇ましい姿をして顔なじみの僕の通るのを見迎え見送るのであった。去年の夏この家からは数町を距《へだ》てたある停留所で電車を待っていた時に、向かい側の寄席《よせ》のある路次から、ひょっくり出て来た恐ろしくふとった女があると思って見ると、それが紛れもないジョンの旧主婦であった。
 去年の暮れ近いころからジョンの家の門口でまた若い婦人が時々張り物をしたりバケツをさげたりしているのを見かけるようになった。今度は前よりはもっとほっそりしたインテリジェントな顔をした婦人であった。ジョンジョンと言って呼ばれると犬は喜んで横飛びに飛んで行って彼女の前垂《まえだれ》に飛びついていたのである。ところが、つい二、三日前に通りかかった時に門口で張り物をしている婦人を見ると、年齢や脊恰好は同じだが、顔はこのあいだじゅう見たのとどうしても別人のように思われた。なんだか少し僕にはわけがわからなくなって来た。しかしわが親愛なるジョン公だけは、相変わらずそんなことには無関心のように堂々とのどかなあくびをして二月の春光をいっぱいに吸い込んでいるのであった。
 人間はまったくおせっかいである。[#地から1字上げ](昭和七年三月、渋柿)
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   曙町より(八)


 二女の女学校卒業記念写真帳と、三女のそれとを較べて見ていると、甲の女学校の生徒の顔には、おのずから共通なあるものがあり、乙の女学校には、また乙の女学校特有のあるものがあるような気がして来る。
 不思議なようでもあり、また当然だという気もする。
 日本人と朝鮮人との顔の特徴にしてもやはり同様にして発達したものであろう。
 ただ、女学校では、わずか五年の間の環境の影響で、すでにこれだけの効果が現われる。
 恐ろしいものである。
 レストーランで昼食をしていると、隣の食卓へお上《のぼ》りさんらしい七、八人の一行が陣取った。
 いずれも同年輩で、同じようないがぐりあたまが、これはまた申し合わせたように同じ程度にはげているのである。
ある学科関係の学者の集合では、かなり年寄りも多いのに一人も禿頭《とくとう》がいない。
 また別の学会へ行くと若い人まで禿頭が多い。
 これも不思議である。[#地から1字上げ](昭和七年五月、渋柿)
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   曙町より(九)


 白木屋《しろきや》七階食堂で、天ぷらの昼飯を食っていた。
 隣の席に、七十余りのおばあさんが、これは皿の中のビーフカツレツらしいものを、両手に一つずつ持った箸《はし》の先で、しきりにつっついているが、なかなか思うようにちぎれない。
 肉がかたくて、歯のない口では噛めないらしい。
 通りがかりの女給を呼んで何か言っている。
 そうして、箸で僕の膳《ぜん》の上の天ぷらを指ざし、また自分の皿の上の肉を指ざし、そうして皿をたたきながら何かしら不平を言っているようである。
 女給は困った顔をして、もじもじしている。
 僕はすっかり気の毒になって、よっぽど自分の皿の上の一尾の海老《えび》を取ってこの老人の皿の上に献じたいという力強い衝動を感じたが、さてどうもいよいよとなると、周囲の人に気兼ねして、つい実行の勇気を出しかねた。
 やがて老人は長い杖《つえ》をついて立ち上がったが、腰は海老のように曲がっていた。
 僕はその時なんとなく亡き祖母や母のことを思い出すと同時に、食堂の広い窓から流れ込む明るい初夏の空の光の中に、一抹《いちまつ》の透明な感傷のただようのを感じた。
 食卓の島々の中をくぐって遠ざかる老人の後ろ姿をながめ
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