までにひどくちがった環境に、それぞれ適応して生存を保ちうる能力があるかどうか疑わしい。[#地から1字上げ](大正十三年十月、渋柿)
[#改ページ]
*
雑草をむしりながら、よくよく見ていると、稲に似たのや、麦に似たのや、また粟《あわ》に似たのや、いろいろの穀物に似たのがいくつも見つかる。
おそらくそれらの五穀と同じ先祖から出た同族であろうと想像される。
それが、自然の環境の影響や、偶然の変移や、その後の培養の結果で、現在のような分化を来たしたものであろう。
これらの雑草に、十分の肥料を与えて、だんだんに培養して行ったら、永い年月の間には、それらの子孫の内から、あるいは現在の五穀にまさる良いものが生まれるという可能性がありはしないか。
人間の種族についてもあるいは同じことが言われはしないか。[#地から1字上げ](大正十三年十一月、渋柿)
[#改ページ]
*
第一流の新聞あるいは雑誌に連載されていた続きものが、いつのまにか出なくなる。
完結したのだか、しなかったのだか、はっきりした記憶もなしに忘れてしまう。
しばらく経てから、偶然の機会に、それの続きが、第二流か三流の新聞雑誌に連載されていることを発見する。ちょっと、久しぶりで旧知にめぐり会ったような気がする。
なつかしくもあれば、またなんとなくさびしくもある。[#地から1字上げ](大正十三年十二月、渋柿)
[#改ページ]
*
古典的物理学の自然観はすべての現象を広義における物質とその運動との二つの観念によって表現するものである。
しかし、物質をはなれて運動はなく、運動を離れて物質は存在しないのである。
自分の近ごろ学んだ芭蕉《ばしょう》のいわゆる「不易流行」の説には、おのずからこれに相通ずるものがある。[#地から1字上げ](昭和二年五月、渋柿)
[#改ページ]
*
俳諧《はいかい》で「虚実」ということがしばしば論ぜられる。
数学で、実数と虚数とをXとYとの軸にとって二次元の量の世界を組み立てる。
虚数だけでも、実数だけでも、現わされるものはただ「線」の世界である。
二つを結ぶ事によって、始めて無限な「面」の世界が広がる。
これは単なる言葉の上のアナロジーではあるが、連句はやはり異なる個性のおのおののXY、すなわちX1[#「1」は小書き]Y1[#「1」は小書き]X2[#「2」は小書き]Y2[#「2」は小書き]X3[#「3」は小書き]Y3[#「3」は小書き]……によって組み立てられた多次元の世界であるとも言われる。
それは、三次元の世界に住するわれらの思惟《しい》を超越した複雑な世界である。
「独吟」というものの成効《せいこう》し難いゆえんはこれで理解されるように思う。
また「連句」の妙趣がわれわれの「言葉」で現わされ難いゆえんもここにある。[#地から1字上げ](昭和二年五月、渋柿)
[#改ページ]
*
ラジオの放送のおかげで、始めて安来節《やすぎぶし》や八木節《やぎぶし》などというものを聞く機会を得た。
にぎやかな中に暗い絶望的な悲しみを含んだものである。
自分は、なんとなく、霜夜の街頭のカンテラの灯《ひ》を聯想《れんそう》する。
しかし、なんと言っても、これらの民謡は、日本の土の底から聞こえて来るわれわれの祖先の声である。
謡《うた》う人の姿を見ないで、拡声器の中から響く声だけを聞く事によって、そういう感じがかえって切実になるようである。
われわれは、結局やはり、ベートーヴェンやドビュッシーを抛棄《ほうき》して、もう一度この祖先の声から出直さなければならないではないかという気がするのである。[#地から1字上げ](昭和二年七月、渋柿)
[#改ページ]
*
「聊斎志異《りょうさいしい》」の中には、到るところに狐の化けたと称する女性が現われて来る。しかし、多くの場合に、それはみずから狐であると告白するだけで、ついに狐の姿を現わさずにすむのが多い。
ただその行為のどこかに超自然的な点があっても、それは智恵のたけた美女に打ち込んでいる愚かな善良な男の目を通して、そう見えたのだ、と解釈してしまえば、おのずから理解される場合がはなはだ多い。
それにもかかわらず、この書に現われたシナ民族には、立派にいわゆる「狐」なる超自然的なものが存在していて、おそらく今もなお存在しているにちがいない。
これはある意味でうらやむべき事でなければならない。
少なくも、そうでなかったとしたら、この書物の中の美しいものは大半消えてしまうのである。[#地から1字上げ](昭和二年九月、渋柿)
[#改ページ]
*
糸瓜《へちま》をつくってみた。
延びる盛りには一日に一尺ぐらいは延びる。
ひげのようなつるを出してつかまり所を捜している。
つるが何かに触れるとすぐに曲がり始め、五分とたたないうちに百八十度ぐらい回転する。
確かに捲きついたと思うと、あとから全体が螺旋形《らせんけい》に縮れて、適当な弾性をもって緊張するのである。
一本のひげがまた小さな糸瓜の胴中にからみついた。
大砲の砲身を針金で捲くあの方法の力学を考えながら、どうなるかと思って毎日見ていた。
いつのまにかつるが負けてはち切れてしまったが、つるのからんだ痕跡だけは、いつまでもちゃんと消えずに残っている。
棚の上にひっかかって、曲玉《まがたま》のように曲がったのをおろしてぶら下げてやったら、だんだん延びてまっすぐになって来た。
しかしほかのに比べるとやっぱりいつまでも少し曲がっている。
[#ここから3字下げ]
ある宵《よい》の即景
名月や糸瓜の腹の片光り[#地から1字上げ](昭和二年十一月、渋柿)
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#図5、挿し絵「へちま」]
[#改ページ]
*
子猫がふざけているときに、子供や妻などが、そいつの口さきに指をもって行くと、きっと噛《か》みつく、ひっかく。自分が指を持って行くと舌で嘗《な》め回す。すぐ入れちがいに他の者が指をやると、やはり噛みつく。
どうも、親しみの深いものには噛みついて、親しみの薄い相手には舐《な》めるだけにしておくらしい。[#地から1字上げ](昭和三年一月、渋柿)
[#改ページ]
三毛の墓
[#ここから3字下げ]
三毛《みけ》のお墓に花が散る
こんこんこごめの花が散る
小窓に鳥影小鳥影
「小鳥の夢でも見ているか」
三毛のお墓に雪がふる
こんこん小窓に雪がふる
炬燵蒲団《こたつぶとん》の紅《くれない》も
「三毛がいないでさびしいな」[#地から1字上げ](昭和三年二月、渋柿)
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#図6、「三毛の墓」の楽譜]
[#改ページ]
*
S. H. Wainwright という学者が、和歌や俳句の美を紹介した論文の中に引用されている俳句の英訳を、俳句の事を何も知らない日本の英学者のつもりになって、もう一遍日本語にしかもなるべく英語に忠実に飜訳してみると、こんな事になる。
「いかに速く動くよ、六月の雨は、寄せ集められて、最上川《もがみがわ》に」
「大波は巻きつつ寄せる、そうして銀河は、佐渡島《さどがしま》へ横切って延び拡がる」
このごろ、よんどころない必要から、リグヴェーダの中の一章句と称するもののドイツ訳を、ちょうどこんな調子で邦語に飜訳しなければならなかった。
そうして実ははなはだ心もとない思いをしていた。
今、右の俳句の英訳の再飜訳という一つの「実験」をやった結果を見て、滑稽《こっけい》を感じると同時に、いくらか肩の軽くなるのを覚えた。[#地から1字上げ](昭和三年三月、渋柿)
[#改ページ]
最上川|象潟《きさかた》以後
(はがき)今日《きょう》越後《えちご》の新津《にいつ》を立ち、阿賀野川《あがのがわ》の渓谷を上りて会津《あいづ》を経、猪苗代《いなわしろ》湖畔《こはん》の霜枯れを圧する磐梯山《ばんだいさん》のすさまじき雪の姿を仰ぎつつ郡山《こおりやま》へ。
それより奥羽線《おううせん》に乗り替え上野に向かう。
先刻|西那須野《にしなすの》を過ぎて昨年の塩原《しおばら》行きを想い出すままにこのはがきをしたため候《そうろう》。
まことに、旅は大正昭和の今日、汽車自動車の便あればあるままに憂《う》くつらくさびしく、五十一歳の懐子《ふところご》には、まことによい浮世の手習いかと思えばまたおかしくもある。
さるにても、山川の美しさは、春や秋のは言わばデパートメントの売り出しの陳列棚にもたとえつべく、今や晩冬の雪ようやく解けて、黄紫《おうし》赤褐《せきかつ》にいぶしをかけし天然の肌の美しさは、かえって王宮のゴブランにまさる。
枯れ芝の中に花さく蕗《ふき》の薹《とう》を見いでて、何となしに物の哀れを感じ侍《はべ》る。
[#ここから3字下げ]
自動車のほこり浴びても蕗の薹[#地から1字上げ](昭和三年四月、渋柿)
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
*
公園劇場で「サーカス」という芝居を見た。
曲馬の小屋の木戸口の光景を見せる場面がある。
木戸口の横に、電気人形《アウトマーテン》に扮した役者が立っていて、人形の身振りをするのが真に迫るので、観客の喝采《かっさい》を博していた。
くるりと回れ右をして、シルクハットを脱いで、またかぶって、左を向いて、眼玉を左右に動かしておいて、さて口をぱくぱくと動かし、それからまたくるりと右へ回って同じ挙動を繰り返すのである。
生きた人間の運動と器械人形の運動との相違を、かなり本質的につかんでいるのは、さすがに役者である。
たとえば手の運動につれて、帽子がある位置に来て、その重心が支点の直上に来るころ、不安定平衡の位置を通るときに、ぐらぐらと動揺したりする、そういう細かいところの急所をちゃんと心得ている。
もちろんこの役者は物理学者ではないし、自働人形の器械構造も知らないであろうが、しかし彼の観察の眼は科学者の眼でなければならない。
人形の運動はすべて分析的である。総合的ではない。
たいていの人間は一種のアウトマーテンである。
あらゆる尊敬すべききまじめなひからびた職業者はそうである。
そうでないものは、英雄と超人と、そうして浮気な道楽者の太平の逸民とである。
俳諧の道は、われわれをアウトマーテンの境界から救い出す一つの、少なくも一つの道でなければならない。[#地から1字上げ](昭和三年五月、渋柿)
[#改ページ]
*
梨《なし》の葉に黄色い斑《ふ》ができて、毛のようなものが簇生《そうせい》する。
自分は子供の時から、あれを見るとぞっと寒気がして、そして自分の頬からこめかみへかけて、同じような毛が生えているような気がして、思わず頬をこすらないではいられない。
このごろ庭の楓樹《かえで》の幹に妙な寄生物がたくさん発生した。
動物だか植物だかわからない。
蕈《きのこ》のような笠《かさ》の下に、まっ白い絹糸のようなものの幕をたれて、小さなテントの恰好をしている。
打っちゃっておけば、樹幹はだんだんにこのために腐蝕されそうである。
これを発見した日の晩に、ふと思い出すと同時に、これと同じものが、自分の腕のそこやかしこにできていそうな気がして、そしてそれが実際できているありさまをかなりリアルに想像して、寝つかれなくて困った。
人の悪事を聞いたり読んだりして、それが自分のした事であるような幻覚を起こして、恐ろしくなるのと似た作用であるかもしれない。
そして、これは、われわれにとって、きわめてだいじな必要な感応作用であるかもしれない。[#地から1字上げ](昭和三年七月、渋柿)
[#改ページ]
*
始めて両国《りょうごく》の川開きというものを見た。
河岸《かし》に急造
前へ
次へ
全16ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング