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夜ふけの汽車で、一人の紳士が夕刊を見ていた。
その夕刊の紙面に、犬のあくびをしている写真が、懸賞写真の第一等として掲げてあった。
その紳士は微笑しながらその写真をながめていたが、やがて、一つ大きなあくびをした。
ちょうど向かい合わせに乗っていた男もやはり同じ新聞を見ていたが、犬の写真のあるページへ来ると、口のまわりに微笑が浮かんで、そうして、……一つ大きなあくびをした。
やがて、二人は顔を見合わせて、互いに思わぬ微笑を交換した。
そうして、ほとんど同時に二人が大きく長くのびやかなあくびをした。
あらゆる「同情」の中の至純なものである。[#地から1字上げ](大正九年十一月、渋柿)
[#改ページ]
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脚《あし》を切断してしまった人が、時々、なくなっている足の先のかゆみや痛みを感じることがあるそうである。
総入れ歯をした人が、どうかすると、その歯がずきずきうずくように感じることもあるそうである。
こういう話を聞きながら、私はふと、出家|遁世《とんせい》の人の心を想いみた。
生命のある限り、世を捨てるということは、とてもできそうに思
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