いウエトレスに導かれて、二人の老人がはいって来る。
 それは芭蕉翁《ばしょうおう》と歌麿《うたまろ》とである。
 芭蕉は定食でいいという、歌麿はア・ラ・カルテを主張する。
 前者は氷水、後者はクラレットを飲む。
 前者は少なく、後者は多く食う。
 前者はうれしそうに、あたりをながめて多くは無言であるが、後者はよく談じ、よく論じながら、隣の卓の西洋婦人に、鋭い観察の眼を投げる。
 隣室でジャズが始まると、歌麿の顔が急に活き活きして来る、葡萄酒のせいもあるであろう。
 芭蕉は、相変わらずニコニコしながら、一片の角砂糖をコーヒーの中に落として、じっと見つめている。
 小さな泡《あわ》がまん中へかたまって四方へ開いて消える。
 それが消えると同時に、芭蕉も、歌麿も消えてしまって、自分はただ一人、食堂のすみに取り残された自分を見いだす。[#地から1字上げ](昭和五年九月、渋柿)
[#改ページ]

   震生湖より


 (はがき)昨日《きのう》は、朝、急に思い立ち、秦野《はたの》の南方に、関東地震の際の山崩れのために生じた池、「震生湖《しんせいこ》」というのを見物および撮影に行った。……
[#こ
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