すべてを完全に知り尽くすことができるような気がした。[#地から1字上げ](昭和四年十一月、渋柿)
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       *

 上野|松坂屋《まつざかや》七階食堂の食卓に空席を捜しあてて腰を下ろした。
 向こう側に五、六歳の女の子、その右側には三十過ぎた母親、左側には六十近いおばあさんが陣取っている。
 純下町式の三つのジェネレーションを代表したような連中である。
 老人は「幕の内」、母子《おやこ》はカツレツである。
 母親が給仕にソースを取ってくれと命ずると、おばあさんが意外にも敏捷《びんしょう》に腕を延ばして、食卓のまん中にあったびんを取っておかみさんの皿の前へ立てた。
「ヤーイ、オバアちゃんのほうがよく知ってら。」
 私が刹那《せつな》に感じたと全く同じ事を、子供が元気よく言い放って、ちょこなんと澄ましている。
 母親はかえってうれしそうに
「ほんとう、ねええ。」
 そんな相槌《あいづち》を打って皿の中の整理に忙しい。
 おばあさんの顔と母親の顔とがよく似ているところから見ると、これはおかみさんが子供をつれての買い物のついでに、里の母親を誘って食堂をふれまうという場面ら
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