昭和四年九月、渋柿)
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 大震災の二日目に、火災がこの界隈《かいわい》までも及んで来る恐れがあるというので、ともかくも立ち退きの準備をしようとした。
 その時に、二匹の飼い猫を、だれがいかにして連れて行くかが問題となった。
 このごろ、ウェルズの「空中戦争」を読んだら、陸地と縁の切れたナイアガラのゴートアイランドに、ただ一人生き残った男が、敵軍の飛行機の破損したのを繕《つくろ》って、それで島を遁《に》げ出す、その時に、島に迷って饑《う》えていた一匹の猫を哀れがっていっしょに連れて行く記事がある。
 その後に、また同じ著者の「放たれた世界」を読んでいると、「原子爆弾」と称する恐るべき利器によって、オランダの海をささえる堤防が破壊され、国じゅう一面が海になる、その時、幸運にも一|艘《そう》の船に乗り込んで命を助かる男がいて、それがやはり居合わせた一匹の迷い猫を連れて行く、という一くだりが、ほんの些細《ささい》な挿話として点ぜられている。
 この二つの挿話から、私は猫というものに対するこの著者の感情のすべてと、同時にまた、自然と人間に対するこの著者の情緒の
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