かに、こういう音楽の中に生き残っているのではないか。[#地から1字上げ](大正十二年一月、渋柿)
[#改ページ]

       *

 大学の構内を歩いていた。
 病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。
 近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄《ぶどう》ぐらいの大きさの疣《いぼ》が一面に簇生《そうせい》していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。
 背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。
 そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。
 そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした。[#地から1字上げ](大正十二年三月、渋柿)
[#改ページ]

       *

 数年前の早春に、神田の花屋で、ヒアシンスの球根を一つと、チューリップのを五つ六つと買って来て、中庭の小さな花壇に植え付けた。
 いずれもみごとな花が咲いた。
 ことにチューリップは勢いよく生長して、色さまざまの大きな花を着けた。
前へ 次へ
全160ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング