返さるる怒濤《どとう》の実写も実に印象の強く深い見ものである。波の音もなかなかよく撮《と》れていて、いつまでも耳に残るような気がした。場外へ出たときに聞いた電車の音がひどく耳立ってきこえた。
こうした映画を見るのは、自分でアランの島へ行って少なくも二三日ぐらい滞在したとほぼ同じような効果があるのではないかという気もした。
アランの島民たちと、現にこの映画を見ている都人士とで、人生というものの概念がどれくらいちがうであろうか、というようなことも考えさせられた。
とにかくこうした映画は別にどうといって説明することのむつかしい、しかしわれわれの生涯《しょうがい》にとって存外非常に重大な効果をもつようなある物を授けてくれるような気がする。
どこかロシア映画を思わせるような編集ぶりとカメラの角度が見られる。ラストシーンの人物の構成など特にそう思われた。「麦秋」などは題材がロシアふうであるのに映画は全然ヤンキーふうであるが、「アラン」にはそうしたアメリカふうがどこにも見えないように思われる。
[#地から3字上げ](昭和十年四月、帝国大学新聞)
十 ナナ
ゾラの「ナナ」から「暗示を受けて」作った映画だと断わってあるから、そのつもりで見るべきであろう。いちばん初めに高所から見たパリの市街が現われ前景から一羽のからすが飛び出す。次に墓場が出る。墓穴のそばに突きさした鋤《すき》の柄《え》にからすが止まると墓掘りが憎さげにそれを追う。そこへ僧侶《そうりょ》に連れられてたった三人のさびしい葬式の一行が来る。このところにあまり新しくはないがちょっとした俳句の趣がある。
アンナ・ステンのナナが酒場でうるさく付きまとう酔っぱらいの青年士官を泉水に突き落とす場面にもやはり一種の俳諧《はいかい》がある。劇場での初演の歌の歌い方と顔の表情とに序破急があってちゃんとまとまっている。そのほかにはたいしておもしろいと思うところもなかったが、ただなんとなしに十九世紀の中ごろの西洋はこんなだったかと思わせるようなものがあって、その時代の雰囲気《ふんいき》のようなものだけが漠然《ばくぜん》とした印象となって頭に残っている。ナナの二人の友だちの服装やアンドレの家の食卓の光景などがそうした感じを助けたようである。
この映画の監督はドロシー・アーズナーとあるから女であろうと思われる。どこかやっぱり女の作った映画らしい柔らかみが全体に行き渡っているような気がする。最後の場面で自殺したナナが二人の男の手を握って二人の顔を見比べながら涙の中からうれしそうに笑って死んで行くところなどもやはりどうしても女らしいインタープレテーションだと思われておもしろかった。
十一 電話新選組
一種の探偵映画《たんていえいが》である。こうしたアメリカ映画では何かしら新しい趣向をして観客のどぎもを抜こうという意図が見られる。この映画では電話局の故障修繕工夫が主人公になっている。それが友だちと二人で悪漢の銀行破りの現場に虜《とりこ》になって後ろ手に縛られていながら、巧みにナイフを使って火災報知器の導線を短絡《ショート》させて消防隊を呼び寄せるが、火の手が見えないのでせっかく来た消防が引き上げてしまう。それでもう一ぺん同じように警報を発しておいて、すきを見て燭火《しょくか》を引っくりかえして火事を起こしたはいいが自分がそのために焼死しそうになるといったような場面もある。また大地震で家がつぶれ、道路が裂けて水道が噴出したり、切断した電線が盛んにショートしてスパークするという見ていて非常に危険な光景を映し出して、その中で電話工夫を活躍させている。それからまた犯人と目星をつけた女の居所を捜すのに電話番号簿を片端からしらみつぶしに呼び出しをかける場面などもやはり一つの思いつきである。
こうした趣向の新しさを競う結果は時にいろいろな無理を生じる。たとえば大地震で大混乱を生じている同じ町の警察のあたりでは何事もなかったらしいようなおかしい現象を生じている。
それでも事件の展開が簡単でなくて、一つの山から次の山へと移って行く道筋が容易には観客の予測を許さない、というだけのはたらきのあるのは、近ごろのこうしたアメリカ映画に普通である。はじめからおしまいの見すかされているような映画ばかり作る日本映画作者の参考になるであろうと思われる。
[#地から3字上げ](昭和十年四月、渋柿)
十二 映画錯覚の二例
塚本閤治《つかもとこうじ》氏撮影の小型映画を見た時の話である。たしか富士吉田町《ふじよしだまち》の火祭りの光景を写したものの中に祭礼の太鼓をたたく場面がある。そのとき、もちろん無声映画であるのにかかわらず、不思議なことには、画面に写し出された太鼓のばちの打撃に応じて太鼓の音がはっきり耳に聞こえるような気がした。よく注意してみると、窓の外の街上を走る電車の騒音の中に含まれているどんどんというような音を自分の耳が抽出し拾い上げて、それを眼前の視像の中に都合よく投げ込んでいたものらしい。
同様に笛を吹く場面でもかすかに笛の音らしいものが聞かれた。これは映写機のモーターの唸音《ハミング》の中から格好な楽音だけをわれわれの耳に特有な抽出作用によって選び出し、そうして視覚から来る連想の誘引に応じてスクリーンの上に投射したものらしい。
最近にはまた上記のものとは種類のちがった珍しい錯覚を経験した。それはこうである。ベルクナー主演の「女の心」(原名アリアーネ)の一場面で食卓の上にすみれの花を満載した容器が置いてある、それをアリアーネが鼻をおっつけて香をかいだりいじり回したりするのであるが、はじめは自分にはそれがなんだかよくわからなくて、葡萄《ぶどう》でも盛ったくだもの鉢《ばち》かと思っていた。そのうちに女がまたこれをいじりながらひとり言のように言ったその言葉ではじめてそれがすみれだとわかった。おかしいことには「ファイルシェン」という言葉が耳にはいってこの花の視像をそれと認識すると同時に、一抹《いちまつ》の紫色がかった雰囲気《ふんいき》がこの盛り花の灰色の団塊の中に揺曳《ようえい》するような気がした。驚いて目をみはってよく見直してもやっぱりこの紫色のかげろいは消失しない。どうしても客観的な色彩としか思われないのであった。
この二つの錯覚の場合は映画の写像の、客観的には不安全な写実能力が、いかに多く観客の頭の中に誘発される連想の補足作用によって助長されているかを示す実例として注意さるべきものかと思われるのである。
十三 「世界の終わり」と「模倣の人生」
同時に上映されたこの二つの映画の対照が自分には興味があった。
キリストの磔刑《たくけい》を演出する受難劇の場面で始まるこのフランス映画には、おしまいまで全編を通じて一種不思議な陰惨で重くるしい悪夢のような雰囲気《ふんいき》が立ち込めている。これはもちろんこの映画の題材にふさわしいように製作者の意図によって故意にかもし出されたのかもしれないが、しかし一面から見るとこの陰惨な雰囲気はフランス人の国民性そのものの中に蔵されているグルーミーでペンシィヴな要素が自然に誘い出されてここに浮き出しているのではないかという気もする。
自分は、実地を踏んで見るまでは、パリという都をただなんとなしに明るく陽気な所のように想像し、フランス人をのどかに朗らかな民族とばかり思っていたのに、ドイツからフランスへ移って見聞するうちに、この予想がことごとく裏切られた。パリの町はすすけてきたなく土地の人間にはいったいになんとなく陰気でほろにがい気分がただよっているように感ぜられたのであった。ところが、今このガンスの作品を見て昔日のこの感じを新たにするような気がした。主役をつとめるノバリーク兄弟とその敵役《かたきやく》ショーンブルクの相貌《そうぼう》もこの一種特別な感じを強めるもののように思われた。しかもそれらの顔のクローズアップのむしろ頻繁《ひんぱん》な繰り返しはいよいよその暗い印象を強めるのであった。
彗星《すいせい》の表現はあまりにも真実性の乏しい子供だましのトリックのように思われたが、大吹雪《おおふぶき》や火山の噴煙やのいろいろな実写フィルムをさまざまに編集して、ともかくも世界滅亡のカタクリズムを表現しようと試みた努力の中にはさすがにこの作者の老巧さの片影を認めることもできないことはないようである。
このフランス映画がなんとなく陰気でどこかじじむさい感じがするのに引きかえて一方のアメリカ映画「模倣の人生」はいかにも明るく新鮮である。この目立った差別には、写真レンズやフィルムの光学的化学的な技術の差から来るものもないとは言われないが、しかしなんといっても国民性の相違から来る根本的なものがすべてを支配し決定しているとしか思われない。このアメリカ映画の話の筋は決してそう明るいものではなくむしろその奥底にはかなりに悲惨な現実の問題を提供しているはずのものであるのに、映画として観客に与える感覚は主として明るくさわやかに新鮮な視像の系列としてのそれである。薄ぎたないかび臭い場面などはどこにも見られないで、言わば白いエナメルとニッケルの光沢とが全編の基調をなしているようである。どうもこういうのが近ごろのアメリカ映画の一つの定型であるらしい。たとえば「白衣の騎士」などもやはり同じ定型に属するものと見ることができはしないかと思う。この型の映画は見たあとで物語の筋などは霧のように消えてしまうが、ただ筋とはたいした関係もないような若干の場面の視覚的印象だけがかなり鮮明に残留するようである。ことによると、こうした種類のものがかえって「いわゆる抽象映画」などよりももっと抽象的な、そうして純粋に映画的な映画であるのかもしれないというふうに思われて来るのである。
十四 「黒鯨亭」
エミール・ヤニングス主演のこの映画は、はじめからおしまいまで、この主役者の濃厚な個性でおおい尽くされた地色の上に適当な色合いを見計らった脇役《わきやく》の模様を置いた壁掛けのようなものである。もっとも同じくヤニングスのものであっても相手役にディートリヒとかアンナ・ステンとかがいる場合は必ずしもそうはならないようであるが、この現在の場合における助演者はこのように主演者と対立して二重奏を演ずるためにはあまりに影が薄いようである。
そのかわりにまたこの映画は「ヤニングスの芝居」を見ようと思う観客にとっては、最も多くの満足を与えるようにできているのかもしれない。たとえば家出して船乗りになった一人むすこからの最初の手紙が届いたときに、友だちの手前わざとふくれっ面《つら》をして見せたり、居間へ引っ込んでからあわててその手紙を読もうとしてめがねを落として割ったりする場面の彼一流の細かい芸は、臭みもあるかもしれないがやはりこの人らしい妙味はあるであろう。こういう点で細かいくふうをするのがどこか六代目|菊五郎《きくごろう》の凝り方と似たところがありはしないか。もっとも日本人|菊五郎《きくごろう》はくふうを隠すことに骨を折りドイツ人ヤニングスはくふうを見せる事をつとめているという相違はあるかもしれない。
心理的にはかなりおかしいと思われるところでも芸の細かさでたいした矛盾を感じさせないで筋を通して行くといったようなところが一二か所あったようである。
この映画と比較してみると、前条に引き合いに出した「模倣の人生」のほうではいわゆる主演者はあっても「黒鯨亭《こくげいてい》」のごとき意味での独裁的主役は無い、むしろいろいろな個性の配合そのもののほうに観客のおもなる興味がつながれているように思われる。それでたとえば軽い意味の助演者としてのスパークスなどという役者でも決してただのむだな点景人物ではなくて、言わば個性シンフォニーの中の重要な一楽器としての役目を充分に果たしているようである。これに反してヤニングスの場合は彼の「独唱」にただ若干の家庭楽器の伴奏をつけたかのような感じがしな
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング