人には別におもしろいとも思われないが、しかしこの映画の劇中劇として插入《そうにゅう》されたレヴューの場面にいろいろ変わった趣向があってちょっとおもしろく見られる。
 たとえば劇場のシーンの中で、舞台の幕があくと街頭の光景が現われる、その町の家並みを舞台のセットかと思っているとそれがほんとうの町になっている。こういう趣向は別に新しくもなくまたなんでもないことのようであるが、しかしやはり映画のスクリーンの世界にのみ可能な一種不思議な夢幻郷である。観客はその夢幻郷の蝴蝶《こちょう》になって観客席の空間を飛翔《ひしょう》してどことも知らぬ街路の上に浮かび出るのである。
 せんたく屋の場面では物干し場の綱につるしたせんたく物のシャツやパジャマが女を相手に踊るという趣向がある。少しふざけ過ぎたようであまり愉快なものではないが、しかし、これなども映画で見ればこそ、それほどの悪趣味には感ぜられないで、一種のファンタスティックな気分をよび起こされることもできなくはない。
 しかしなんといってもこの映画でいちばんおもしろいのは、いろいろな幻影のレヴューである。観客はカメラとなって自由自在に空中を飛行しながら生きた美しい人間で作られたそうして千変万化する万華鏡模様を高空から見おろしたり、あるいは黒びろうどに白銀で縫い箔《はく》したような生きたギリシア人形模様を壁面にながめたりする。それが実に呼吸《いき》をつく間もない短時間に交互|錯綜《さくそう》してスクリーンの上に現滅するのである。
 昨年見た「流行の王様」という映画にも黒白の駝鳥《だちょう》の羽団扇《はうちわ》を持った踊り子が花弁の形に並んだのを高空から撮影したのがあり、同じような趣向は他にもいくらもあったようであるが、今度の映画ではさらにいろいろの新趣向を提供して観客の興味を新たにしようと努力した跡がうかがわれる。たとえば大写しのヒロインの目の瞳孔《どうこう》の深い深い奥底からヒロイン自身が風船のように浮かび上がって出て来たり、踊り子の集団のまん中から一人ずつ空中に抜け出しては、それが弾丸のように観客のほうへけし飛んで来るようなトリックでも、芸術的価値は別問題として映画の世界における未来の可能性の多様さ広大さを暗示するものとして注意してもよいものではないかと思われる。
 ドイツのフィッシンガーの作った「踊る線条」という「問題の映画」がある。この映画では光の線条が映写幕上で音楽に合わせて踊りをおどる。これと、前述のようなレヴュー映画の場合に生きた人間で作った行列の線の運動し集散するのとを比較して見ると、本質的に全く共通なものがある。ただ相違の点は、一方ではそれ自身には全く無意味な光った線が踊り子の役をつとめているのに、他方では一人一人に生きた個性をもった人間の踊り子が画面ではほとんどその個性を没却して単に無意味な線条を形成している、というだけである。
 それだのに、純粋な線条の踊りは一般観客にはさっぱり評価されないようである一方でレヴューのほうは大衆の喝采《かっさい》を博するのが通例であるらしい。ここに映画製作者の前に提出された一つの大きな問題があると思われる。
 あまりに抽象的で特殊な少数の観客だけにしか評価されないようなものは結局映画館と撮影所とを閉鎖の運命に導く役目しか勤めない。しかし、また一方、大衆にわかりやすい常套手段《じょうとうしゅだん》をいつまでも繰り返しているのでは飽きやすい世間からやがて見捨てられるという心配に断えず脅かされなければならない。その困難を切り抜けるためには何かしら絶え間なく新しい可能性を捜し出してはそれをスクリーンの上に生かすくふうをしなければならない。幸いなことには、映画という新しいメジウムの世界には前人未到の領域がまだいくらでも取り残されている見込みがある。そうした処女地を探険するのが今の映画製作者のねらいどころであり、いわば懸賞の対象でなければならない。それでたとえばアメリカ映画における前述のレヴューの線条的あるいは花模様的な取り扱い方なども、そうした懸賞問題への一つの答案として見ることもできる。そうして、それに対して「踊る線条」のような抽象映画は一つの暗示として有用な意義をもちうるわけである。少なくもこういう見地からこれらの二種の映画をながめてそれぞれの存在理由を認めることもできそうである。
 新しい考えの生まれるためには何かしら暗示が必要である。暗示の種は通例日常われわれの面前にころがっている。しかし、それを見つけるにはやはり見つけるだけの目が必要であることはいうまでもない。
 日本には西洋とちがった環境があり、日本人には日本人の特有な目があるのであるからもし日本の映画製作者がほんとうの日本人としての自分自身の目を開いてわれわれの環境を物色したら、西洋人には到底考えつかないような新しいアイディアがいくらも浮かびそうなものだと思われるがそうした実例が日本映画のおびただしい作品の中にいっこうに見られないのは残念な事である。それでたとえば昔、広重《ひろしげ》や歌麿《うたまろ》が日本の風土と人間を描写したような独創的な見地から日本人とその生活にふさわしい映画の新天地を開拓し創造するような映画製作者の生まれるまでにはいったいまだどのくらいの歳月を待たなければならないか、今のところ全く未知数であるように見える。そこへ行くと、どうもアメリカの映画人のほうがよほど進んでいるといわれても弁明のしようがないようである。これは自分が平常はなはだ遺憾に思っている次第である、日本がアメリカに負けているのは必ずしも飛行機だけではないのである。このひけ目を取り返すには次のジェネレーションの自覚に期待するよりほかに全く望みはないように見える。
[#地から3字上げ](昭和十年二月、高知新聞)

     六 麦秋

 だいぶ評判の映画であったらしいが、自分にはそれほどおもしろくなかった。それは畢竟《ひっきょう》、この映画には自分の求めるような「詩」が乏しいせいであって、そういうものをはじめから意図しないらしい作者の罪ではないようである。自分の目にはいわば一つの共産労働部落といったようなものに関する「思考実験」の報告とでもいったようなものが全編の中に織り込まれているように思われる。それでそういう事に特に興味のある人たちにはその点がおもしろいのかもしれないが主として詩と俳諧《はいかい》とを求めるような観客にとっては、何かしらある問題を押し売りされるような気持ちがつきまとって困るようである。
 二マイルも離れた川から水路を掘り通して旱魃地《かんばつち》に灌漑《かんがい》するという大奮闘の光景がこの映画のクライマックスになっているが、このへんの加速度的な編集ぶりはさすがにうまいと思われる。
 ただわれわれ科学の畑のものが見ると、二マイルもの遠方から水路を導くのに一応の測量設計もしないでよくも匆急《そうきゅう》の素人仕事《しろうとしごと》で一ぺんにうまく成効したものだという気がした。また「麦秋」という訳名であるが、旱魃で水をほしがっているあの画面の植物は自分にはどうも黍《きび》か唐黍《とうきび》かとしか思われなかった。
 主人公の「野性的好男子」もわれらのような旧時代のものにはどうもあまり好感の持てないタイプである。しかし、とにかくこうした映画で日常教育されている日本現代の青年男女の趣味|好尚《こうしょう》は次第に変遷して行って結局われわれの想像できないような方向に推移するに相違ない。考えてみると映画製作者というものは恐ろしい「魔法の杖《つえ》」の持ち主である。

     七 ロスチャイルド

 この映画はなにしろ取り扱っている物語の背景の大きさというハンディキャップを持っている。その上に主役となる老優の渋くてこなれた演技で急所急所を引きしめて行くから、おそらくあらゆる階級の人が見て相当楽しめる映画であろうと思われる。しかしユダヤ人というものの概念のはなはだ希薄な日本人には、おそらくこの映画の本来のねらいどころは感ぜられないであろうし、あるいはかえってそのおかげで日本人にはいやみや臭味を感ずることなしにこの映画のいいところだけを享楽することができるかもしれない。
 主人公の老富豪が取引所の柱の陰に立って乾坤一擲《けんこんいってき》の大賭博《だいとばく》を進行させている最中に、従僕相手に五十銭玉一つのかけをするくだりがある。そのかけにも老主人が勝ってそうしてすまして相手の銭をさらって、さて悠々《ゆうゆう》と強敵と手詰めの談判に出かけるところにはちょっとした「俳諧《はいかい》」があるように思われた。
 最後に、勲功によって授爵される場面で、尊貴の膝下《しっか》にひざまずいて引き下がって来てから、老妻に、「どうも少しひざまずき方が間違ったようだよ」と耳語しながら、二人でふいと笑いだすところがある。あすこにもやはり一種の俳味があり、そうしていかにも老夫婦らしいさびた情味があってわれわれのような年寄りの観客にはなんとなくおもしろい。
 しかし映画芸術という立場から見るとむしろ平凡なものかもしれないと思われた。

     八 ベンガルの槍騎兵

 変わった熱帯の背景とおおぜいの騎兵を使った大がかりな映画である。物語の筋はむしろ簡単であるが、途中に插入《そうにゅう》されたいろいろのエピソードで「映画的内容」がかなり豊富にされているのに気がつく。たとえば兵営の浴室と隣の休憩室との間におけるカメラの往復によって映出される三人の士官の罪のない仲のいいいさかいなどでも、話の筋にはたいした直接の関係がないようであるが、これがあるので、後にこの三人が敵の牢屋《ろうや》に入れられてからのクライマックスがちゃんと生きて来るように思われる。事件的には縁がない代わりに心理的の伏線になるのである。拷問の後にほうり込まれた牢獄《ろうごく》の中で眼前に迫る生死の境に臨んでいながらばかげた油虫の競走をやらせたりするのでも決してむだな插話《そうわ》でなくて、この活劇を生かす上においてきわめて重要な「俳諧《はいかい》」であると思われる。最後のトニカを響かせる準備の導音のような意味もあるらしい。
 配役の選択がうまい。鈍重なスコッチとスマートなロンドン子と神経質なお坊っちゃんとの対照が三人の俳優で適当に代表されている。対話のユーモアやアイロニーが充分にわからないのは残念であるが、わかるところだけでもずいぶんおもしろい。新入りの二人を出迎えに行った先輩のスコッチが一人をつかまえて「お前がストーンか」と聞くと「おれはフォーサイスだ」と答える。「それじゃあれがストーンだ」というと、「驚くべき推理の力だな」と冷やかす。
 牢屋でフォーサイスが敵将につかみかかって従者に打ちのめされる。敵将が「勇気には知恵が伴なわなければだめだよ」といって得意になる。敵将が去って後に仲間が「ばかやろう」とののしるのには答えないで黙って握りこぶしをあけて見せる。つかみかかったときの騒ぎにまぎれて弾薬をすり取っていたのである。敵将のいった言葉がここで皮肉に生きて来て観客を喜ばせるのである。

     九 アラン

「ベンガルの槍騎兵《そうきへい》」などとは全く格のちがった映画である。娯楽として見るにはあまりにリアルな自然そのものの迫力が強すぎるような気がする。神経の弱いものには軽い脳貧血を起こさせるほどである。こんな土の見えない岩ばかりの地面をひと月もつづけて見ていたらだれでも少し気が変になりはしないかという気がした。
 うば鮫《ざめ》を捕獲する一巻でも同じような場面がずいぶん繰り返し長く映写されるので、ある意味では少し退屈である。しかしこの退屈は下手《へた》な芝居映画の退屈などとは全く類を異にした退屈であって、それは画中の人生と自然そのものの退屈から来る圧迫感である。詳しくいえば、大西洋の海面の恒久の退屈さでありアラン島民の生活の永遠の退屈さである。退屈というのが悪ければ深刻な憂鬱《ゆううつ》である。それを観客に体験させる。
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