映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1−13−24])
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)自分の嗜好《しこう》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)「|これが運命というものじゃ《セ・ラ・デスティネー》」

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和十年二月、セルパン)
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     一 商船テナシティ

 このジュリアン・デュヴィヴィエの映画は近ごろ見たうちでは最もよいと思ったものの一つである。何よりも、フランス映画らしい、あくの抜けたさわやかさが自分の嗜好《しこう》に訴えて来る。
 汽車でアーヴルに着いてすっかり港町の気分に包まれる、あの場面のいろいろな音色をもった汽笛の音、起重機の鎖の音などの配列が実によくできていて、ほんとうに波止場《はとば》に寄せる潮のにおいをかぐような気持ちを起こさせる。発声映画の精髄をつかんだものだという気がする。これと同じようなことをドイツ人日本人がやればまずたいていは失敗するから妙である。
 二人の若者の出帆を見送ったイドウ親爺《おやじ》とテレーズとが話しながら埠頭《ふとう》を帰って来る。親爺が「|これが運命というものじゃ《セ・ラ・デスティネー》」というとたんに、ぱっと二人の乗って行った船の機関室が映写されて、今まで回っていたエンジンのクランクがぴたりと止まる。これらはまねやすい小技巧ではあるがやはりちょっとおもしろい。
 バスチアンとイドウとが氷塊を小汽艇へ積み込んでいるところへテレーズがコーヒーの茶わんを持ってくる。バスチアンがいきなり女を船に引きおろしておいてモーターをスタートする。そうして全速力で走り出す。スクリーンの面で船や橋や起重機が空中に舞踊し旋回する。その前に二人の有頂天になってはしゃいでいる姿が映る。そうしたあとで、テナシティのデッキの上から「あしたは出帆だ」とどなるのをきっかけに、画面の情調が大きな角度でぐいと転回してわき上がるように離別の哀愁の霧が立ちこめる。ここの「やま」の扱いも垢《あか》が抜けているようである。あくどく扱われては到底助からぬようなところが、ちょうどうまくやれば最大の効果を上げうるところになるのである。同じような起重機の空中舞踊でもいつか見たロシア映画では頭痛とめまいを催すようなものになっていたようである。
 ルネ・クレールでもデュヴィヴィエでも配役の選択が上手《じょうず》である。いくらはやりっ子のプレジアンでも、相手がいつも同じ相手役では、結局同じ穴のまわりをぐるぐる回ることになるであろう。
 このあいだ見た蒲田《かまた》映画「その夜の女」などでも日本映画としては相当進歩したものではあろうが、しかし配役があまりに定石的で、あまりに板につき過ぎているためにかえってなんとなくステールな糠味噌《ぬかみそ》のようなにおいがして、せっかくのネオ・リアリズムの「ネオ」がきかなくなるように感ぜられた。これは日本映画の将来の改善のために根本的な問題を提供するものだと思われる。

     二 実写映画に関する希望

 せんだって「北進日本」という実写映画を見た。いろいろな点でなかなかよくできているおもしろい映画であると思われた。ただ一つはなはだしく不満に思われたのは、せっかくの実写に対する説明の言葉が妙に気取り過ぎていて、自分らのような観客にとっていちばん肝心の現実的な解説が省かれていることであった。たとえば場面が一転して、海上から見た島山の美しい景色が映写された瞬間にわれわれの頭には「どこだろう」という疑問が浮かぶ。ところがこれに対する説明の録音は気取った調子で「千島《ちしま》にも春は来ました」とそれっきりである。千島の何島のどの部分の海岸をどの方向から見たのだか、また何月何日ごろの季節だか、そういう点が全然わからないのである。同じように、トナカイの群れを養う土人の家族が映写されても、それがカラフトのおおよそどのへんに住むなんという種族の土人だかまるきりわからないから、せっかくの印象を頭の中のどの戸棚《とだな》にしまってよいか全く戸まどいをさせられる。
 材木の切り出し作業や製紙工場の光景でも、ちょっと簡単な地図でも途中に插入《そうにゅう》して具体的の位置所在を示しならびに季節をも示してくれたら、興味も効能も幾層倍するであろう。しかるに、その肝心な空間的時間的な座標軸を抜きにして、いたずらに縹渺《ひょうびょう》たる美辞(?)を連ねるだけであるからせっかくの現実映画の現実性がことごとく抜けてしまって、ただおとぎ話の夢の国の光景のようなものになってしまうだけである。
 もう少し観客を子供扱いにしないでおとな扱いにしてもらいたいという気がしたことであった。
 これと同じような不満は従来の鉄道省の宣伝映画を見ているうちにもしばしば感じたことがある。現に眼前に映写されている光景が観客の知識の戸棚のどの引き出しに入れていいかわからないで、ラベルのつかないばらばらの断片になってしまっているのである。
 同じようなことであるが、ある一場面と次の一場面との空間的関係を示すような注意が一般にあまりに閑却され過ぎている。キャメラが一町とは動いていない場合に、面画は何千里の遠方にあるか想像もできないようなひとり合点の編集ぶりは不親切である。
 むだなようでもこうした実写映画では観客の頭の中へ空間的時間的な橋をかけながら進行するように希望したいのである。

     三 誤解されたトーキー

 トーキーは物を言う映画だからと言っても、何もむやみに物を言わせる必要はない。このことはトーキーが発明されてから後にまもなく発見された平凡な真理である。しかし、このことがまだ今日でも発声映画製作者に充分には理解されていないのではないかと思われることがしばしばある。
 アメリカ映画でも、言葉のよくわからぬわれわれにはどうもあまりしゃべり過ぎてうるさく感ぜられることが多いが、これはやむを得ないかもしれない。とにかくジミー・デュラントを聞いていると頭が痛くなるだけでちっともおかしくないが、あまりしゃべらないフィールズやローレル、ハーディのほうは楽しめる。
「雁来紅《かりそめのくちべに》」という奇妙な映画で、台湾《たいわん》の物産会社の東京支店の支配人が、上京した社長をこれから迎えるというので事務室で事務成績報告の予行演習をやるところがある。自分の椅子《いす》に社長をすわらせたつもりにして、その前に帳簿を並べて説明とお世辞の予習をする。それが大きな声で滔々《とうとう》と弁じ立てるのでちっともおかしくなくて不愉快である。これが、もしか黙ってああしたしぐさだけをやっているのであったら見ている観客には相当におかしかったかもしれないのである。音がほしければ窓外のチンドン屋のはやしでも聞かせたほうがまだましであろう。それからたとえばまた「直八子供旅《なおはちこどもたび》」では比較的むだな饒舌《じょうぜつ》が少ないようであるが、ひとり旅に出た子供のあとを追い駆ける男が、途中で子供の歩幅とおとなのそれとの比較をして、その目の子勘定の結果から自分の行き過ぎに気がついて引き返すという場面がある。「子供の足でこれだけ、おとなの足でこれだけ」と、何も言わなくてもいいひとり言を大きな声で言うので困ってしまう。あれはやはり無言で、そうしてもっと暗示的で誇張されない挙動で効果を出さなくてはならないと思われる。引っ返すこの男と、あとから出発した直八と、中間を歩いている子供とが途中で会合することを暗示しただけで幕をおろすという暗示的な手法をとった一方で、こんな露骨なお芝居を見せるのは矛盾である。
 ついでながら、歩幅と同時に歩調を勘定に入れなければ何時間で追いつくかという勘定はできないはずであるが、あの映画に出るあの役者にその勘定ができるかしらと思うとちょっとおかしくなる。

     四 映画批評について

 このごろはそれほどでもないがひところはソビエト映画だとなんでもかでもほめちぎり、そうでない映画は全部めちゃくちゃにけなしつけるというふうの批評家があった。しかしそういう批評をいくら読んでみても一方の映画のどういう点がどういうわけで、どういうふうによく、他方のがどうしていけないかという具体的分析的の事はちっともわからないのであった。こういうふうに純粋に主観的なものは普通の意味で批評とは名づけにくいような気がする。
 批評はやはりある程度までは客観的分析的であってほしい。そうしてやはりいいところと悪いところと両方を具体的に指摘してほしい。こういう点では、下町の素人《しろうと》の芝居好きの劇評のほうがかえって前述のごとき著名なインテリゲンチアの映画批評家の主観的概念的評論よりもはるかに啓発的なことがありうるようである。
 こんな不満をいだいていたのであったが、近ごろは立派な有益な批評を書いて見せる批評家が輩出したようである。
 以前は何か一つよい映画が出ると、その映画の批評については自分の見解だけが正しくて他の人の批評は皆間違っているかのようにたいそうなけんまくで他の批評家の批評をけなしつけ、こきおろすというふうの人もあったものである。これは、たとえて言わば、花見に行って、この花のわかるのはおれ一人だと言って群集をののしるようなものでおかしい。今はそんな人もないであろうが、しかしよく考えてみると、こうした気分は実を言うとあらゆる芸術批評家の腹の底のどこかにややもすると巣をくいたがる寄生虫のようなものである。そうして、どういうわけか、これは特に映画批評人という人たちのとかくするとかかりやすい病気のように思われる。これは、映画がまだ芸術として若い芸術であるという事が一つ、それから映画の成立にいろいろなテクニカルな要項が付帯しているために、それに関する知識の程度によって批評家の種類と段階の差別が多様になるという事がもう一つの原因になるのではないかという気がするのである。
 批評する対象の時間的恒久性という点から見ても実にいろいろな種類の批評がある。たとえば、音楽の演奏会の批評などは、その時に聞かなかった聴衆にはナンセンスである。生け花展覧会の批評などもややこれに類している。映画の批評となると、まさかそれほどでもないかもしれないが、大多数の映画の大衆観客にとっての生命はひと月とはもたない。セルロイドフィルムの保存期間が延長されない限りいくら長くても数十年を越えることはむつかしい。こういう短命なものを批評するのと、彫刻や油絵のような長持ちのするものを批評するのとでは、批評の骨の折れ方もちがうわけである。一週間映写されたきりでおそらくまず二度とは見られる気づかいのないような映画を批評するのなら、何を言っておいてもあとに証拠が残らないからいいが、金銅の大仏などについてうっかりでたらめな批評でも書いておいて、そうして運悪くこの批評が反古《ほご》にならずに百年の後になって、もしや物好きな閑人《ひまじん》のためにどこかの図書館の棚《たな》のちりの奥から掘り出されでもすると実にたいへんな恥を百年の後にさらすことになるのである。
 百年後に読む人にもおもしろくて有益なような映画評をかくということはなかなか容易な仕事ではないのである。
 こんなことを考えていると映画の批評などを書くということが世にもはかないつまらない仕事のように思われて来る。しかしまた考え直してみると自分などの毎日のすべての仕事が結局みんな同じようなはかないものになってしまうのである。
 しかし、こういうことを自覚した上で批評するのと、自覚しないで批評するのとではやはり事がらに少しの相違がありはしないか。この点についても世の映画批評家の教えを受けたいと思っている次第である。[#地から3字上げ](昭和十年二月、セルパン)

     五 人間で描いた花模様

 近ごろ見た映画「泥酔夢《でいすいむ》」(Dames)というのは、話の筋もアメリカ式のふざけたもので主題歌などもわれわれ日本
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