いでもない。そういう伴奏としてはしかしそれぞれの助演者もそれ相当の効果を見せてはいるようである。
[#地から3字上げ](昭和十年五月、映画評論)

     十五 乙女心三人姉妹

 川端康成《かわばたやすなり》の原著は読んだことはないが、この映画の話の筋はきわめて単純なもので、ちょっとした刃傷事件《にんじょうじけん》もあるが、そういう部分はむしろはなはだ不出来でありまた話の結末もいっこう収まりがついていない。しかしこの映画を一種の純粋な情調映画と見なし「俳諧的《はいかいてき》映画」の方向への第一歩の試みとして評価するとすれば相当に見どころのある映画だと思われる。観音の境内や第六区の路地や松屋《まつや》の屋上や隅田河畔《すみだかはん》のプロムナードや一銭蒸汽の甲板やそうした背景の前に数人の浅草娘《あさくさむすめ》を点出して淡くはかない夢のような情調をただよわせようという企図だとすれば、ある程度までは成効しているようである。ただもう一息という肝心のところをいつでも中途半端で通り抜けてしまうのが物足りなく思われる。たとえば最後の場面でお染《そめ》が姉夫婦を見送ってから急に傷の痛みを感じてベンチに腰をかけるとき三味線がばたりと倒れるその音だけを聞かせるが、ただそれだけである。ああいう俳諧の「挙句《あげく》」のようなところをもう一呼吸引きしめてもらいたいと思うのである。その挙句のシナリオはいろいろくふうがあるであろう。たとえばごく甘口の行き方をすれば、弦の切れて巻き上がった三味線をちょっと映した次に、上野《うえの》の森のこずえのおぼろ月でも出しそれに夜がらすの声でも入れておいて、もう一ぺん妹とその情人の停車場へ急ぐ自動車を出すとかなんとか方法はないものかと思う。
 主役三人姉妹も上出来のようである。苦労にやつれた姉娘とほがらかでわがままな末のモダーン娘との中に立つ姉妹思いのお染の役がオリジナルな表情の持ち主で引き立っている。そうして端役《はやく》に出る無表情でばかのような三人の門付《かどづ》け娘が非常に重大な「さびしおり」の効果をあげているようである。
 男役のほうはどうもみんな芝居臭さが過ぎて「俳諧《はいかい》」をこわしているような気がする。どうして、もう少し自然に物事ができないものかと思うのはこの映画ばかりではない。いったいに日本の近代映画の俳優では平均して女優のほうがこういう点で頭がよくて男のほうが劣っているように思われる。女のほうは頭のいいようなのが映画を志す、男の頭のいいのは他の方面にいくらも道があってみんなそのほうへ行ってしまう、といったようなこともいくらかあるのではないかという気がする。ただし男のほうにも自分の知っているだけでも四五人くらいは相当頭のいいのがいるようであるが、平均の上で多少そうした傾向がありはしないか。
 安アパートの夜の雨の場面にももう少しの俳諧がほしいような気がした。
 前途有望なこの映画の監督にぜひひと通りの俳諧修行をすすめたいような気がしているのである。

     十六 外人部隊

 たいへんに前評判のあった映画であるが自分にはそれほどでなかった。言葉のよくわからないせいもあろうがいったいに前のスターンバークの「モロッコ」などに比べて歯切れが悪くてアクセントの弱い作品のように思われる。見ていて呼吸のつまるような瞬間が乏しく、全体になんとなくものうい霧のようなもののかかった感じがする。
 役者では主役のピエールよりも脇役《わきやく》のニコラというロシア人がわざとらしくないいかにもその人らしいところがよかった。イルマという女の知恵のない肉塊のような暗い感じ、マダム・ブランシュの神巫《シビル》のような妖気《ようき》などもこの映画の色彩を多様にはしている。
 いちばん深刻だと思われた場面は、最大速度で回る電扇と、摂氏四十度を示した寒暖計を映出したあとで、ブランシュの酒場の中の死んだような暑苦しい空気がかなりリアルに映写される。女主人公が穴蔵へ引っ込んだあとへイルマが蠅取《はえと》り紙を取り換えに来る、それをながめていたおやじの、暑さでうだった頭の中に獣性が目ざめて来る。かすかな体臭のようなものが画面にただよう。すると、おやじはのそのそ立ち上がり、「氷を持って来い」といいすてて二階へ上がる。
 その前の場面にもこの主人がマダムに氷を持って来いといって二階へ引っ込む場面がある。そのときマダムは「フン」といったような顔をして、まるで歯牙《しが》にかけないで、マニキュアを続けているのである。この場面が、あとの「氷をもって来い」でフラッシュバックされて観客の頭の中に浮かぶ。
 この「氷を持って来い」が結局大事件の元になっておやじはピエールに二階から突き落とされて死ぬ事になるのである。
 この摂氏四十度の暑さと蠅取《はえと》り紙の場面には相当深刻な真実の暗示があるが、深刻なためにかえって検閲の剪刀《せんとう》を免れたと見える。
 兵隊が帰って来た晩の街頭の人肉市場の光景もかなりに露骨であるが、どこか少しこしらえものらしいところもある。
 フロランスという女に最初に失望する場面と後にも一度失望する場面との対照がもう少しどうにかならないかという気がする。しかし最後に絶望して女の邸宅を出て白日の街頭へ出るあたりの感じにはちょっとした俳諧が感ぜられなくはない。まっ白な土と家屋に照りつける熱帯の太陽の絶望的なすさまじさがこの場合にふさわしい雰囲気《ふんいき》をかもしているようである。

     十七 男の世界

 生粋《きっすい》のアメリカ映画である。今までに見たいろいろの同種の映画のいろいろの部分が寄せ集められてできあがっているという感じである。しかしただ、ポウェルという男とゲーブルという男との接触から生じるいかにもきびきびした歯切れのいい意気といったようなものが全編を引きしめていて観客を退屈させない。
 拳闘場《けんとうじょう》の鉄梯子道《てつばしごみち》の岐路でこの二人が出会っての対話の場面と、最後に監獄の鉄檻《てつおり》の中で死刑直前に同じ二人が話をする場面との照応にはちょっとしたおもしろみがある。
 ゲーブルの役の博徒《ばくと》の親分が二人も人を殺すのにそれが観客にはそれほどに悪逆無道の行為とは思われないような仕組みになっている。二度目の殺人など、洗面場で手を洗ってその手をふくハンケチの中からピストルの弾《たま》を乱発させるという卑怯千万《ひきょうせんばん》な行為であるにかかわらず、観客の頭にはあらかじめ被殺害者に対する憎悪《ぞうお》という魔薬が注射されているから、かえって一種の痛快な感じをいだかせ、この殺人があたかも道徳的に賛美すべきものであるような錯覚を起こさせピストルの音によって一種の快いスリルを味わわせる。映画というものは実際恐ろしい魔術だと思われる。
[#地から3字上げ](昭和十年六月、渋柿)



底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:多羅尾伴内
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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