であることと「肉屋」であることに深い意味があるような気がする。
 六万の観客中には、シネマ俳優としてのベーアの才能と彼のいろいろなセンチメンタル・アドヴェンチュアとを賛美する一万の婦人がいてはなやかな喝采《かっさい》を送ったそうである。
 友人たちとこの映画のうわさをしていたとき、居合わせたK君は、坊間所伝の宮本武蔵《みやもとむさし》対|佐々木巌流《ささきがんりゅう》の試合を引き合いに出した。武蔵は約束の時間を何時間も遅刻してさんざんに相手をじらしたというのである。武蔵もまたどこかユダヤ人のような頭の持ち主であったのかもしれない。

     十 「只野凡児」第二編

 凡児《ぼんじ》の勤めている会社がつぶれて社長が失踪《しっそう》したという記事の載った新聞を、電車の乗客があちらこちらで読んでいる。それが凡児の鼻の先に広げられているのに気がつかず、いつものようにのんきに出勤して見ると、事務室はがら明きで、ただ一人やま子がいる。そこへ人夫が机や椅子《いす》を運び出しに来る。
 ここらの呼吸はたいそういい。しかし、おかしいことには、これと同日同所で見せられたアメリカ映画「流行の王様」に、やはり同様に破産した事務所の家具が運び出される滑稽《こっけい》な光景がある。人夫がヒーローの帽子を失敬しようとする点まで全く同工異曲である。これは偶然なのか、それともプログラム編成者の皮肉なのか不明である。
 凡児《ぼんじ》が父の「のんきなトーさん」と「隣の大将」とを上野《うえの》駅で迎える場面は、どうも少し灰汁《あく》が強すぎてあまり愉快でない。しかし、マダムもろ子の家の応接間で堅くなっていると前面の食堂の扉《とびら》がすうと両方に開いて美しく飾られたテーブルが見える、あの部分の「呼吸」が非常によくできている。これは、映画に特有な「呼吸のおもしろみ」であって、分析的には説明のしにくいものである。
 食卓での四人それぞれの表情もわりに自然で気持ちがいい。この映画でいちばん成効しているのはおそらくこの前後の少しのところである。しかし、凡児一行が大島《おおしま》へ行ってからはどうも失敗である。全体が冗長すぎるばかりでなく、画面の推移の呼吸がちっとも生きていない。
 もろ子がかんしゃくを起こして猿《さる》を引っぱたくところだけが不思議に生きている。前編でも同じ人が弟の横顔をぴしゃりとたたくところも同様に、ちゃんと生きた魂がはいっている。
 隣の大将が食卓でオール・ドゥーヴルを取ってから上目で給仕の女中の顔をじろりと見る、あの挙動もやはり「生きてはたらきかける」ものをもっている。
 生きているというのはつまり自然の真の一相の示揚された表情があるということであろう。こういう箇所に出くわすと自分はほっとして救われた気がするのであるが、多くの日本映画には、こうした気のする場面がはじめからおしまいまで一つもないのは決して珍しくないのである。

     十一 荒馬スモーキー

 この映画も監督は馬に芝居をさせているつもりでいるが、馬のほうでは、あたりまえのことながら、ちっとも芝居気はなくて始終真剣だから、そう思ってこの馬のヒーローを見ていると実に愉快である。子馬が生まれて三日ぐらいだという場面で、母馬の乳をしゃぶりながらかんしゃくを起して親の足をぽんぽんける、そのやんちゃぶりや、また、けられても平気ですましている母の態度や、実に涙が出るほどかわいくおもしろい真実味があふれている。
 悍馬《かんば》を慣らす顛末《てんまつ》は、もちろん編集の細工が多分にはいってはいるであろうが、あばれるときのあばれ方はやはりほんとうのあばれ方で寸毫《すんごう》の芝居はないから実におもしろい。
 この映画を見て、自分ははじめて悍馬の美しさというものを発見したような気がする。馬を稽古《けいこ》する人が上達するに従ってだんだん荒い馬を選ぶようになる心理もいくらかわかったような気がする。何よりも荒馬のいきり立って躍《おど》り上がる姿にはたとえるもののない「意気」の美しさが見られるのである。
 この映画の「筋」はわりにあっさりしているので「馬」を見るのに邪魔にならなくていい。それで、この映画は、まだ馬というものを知らない観客に、この不思議な動物の美しさとかわいさをいくらかでも知らせる手引き草として見たときには立派に成効したものと言ってもいいかと思われるのである。

     十二 忠犬と猛獣

 これも動物の芝居を見せる映画であるが、シェパードの芝居は象や馬の芝居に比べて、あまりにうま過ぎ、あまりに人間の芝居に接近し過ぎるので、感心するほうが先に立って純粋な客観的の興味はいくぶんそのために減ぜられるような気もする。
 この映画の編集ぶりは少ししまりがないようである。同じような場面の繰り返しが多すぎて倦怠《けんたい》を招く箇所が少なくない。
 この映画のストーリーの原作では、たしか、最後に忠犬が猛獣を倒して自分もその場で命をおとすようなことになっているかと思う。それが映画ではハッピー・エンドになっている。たぶんこうしなければ一般観客のうけが悪いからであろう。しかしこのことは映画と小説との区別に関して一つの根本的な問題を暗示する。
 小説では忠犬を「殺す」ほうが得策であるのに映画では殺さないほうが得策だとすれば、それはいったいどこからそういう差別が生じるかということである。そこに小説と映画との本質的な差別の目標の一つを探り出す糸口がありはしないか。
 一つには、小説と映画では相手にする大衆の素質、顧客の層序において若干の異同のあることも事実であろう。しかしそれよりも大切なことは、映画の写し出す視覚的影像の喚起する実感の強度が、文字の描き出す心像のそれに比較して著しく強いという事実がこの差別を決定する重要な因子になるのではないかと思われる。
 忠犬の死を「読む」だけならば、美しい感傷を味わうだけのゆとりがある。しかしそれを「見せられる」のでは、刺激があまりに強すぎて、もはや享楽の領域を飛び出してしまう恐れがあるのではないかと思われる。

     十三 血煙天明陣

 この映画は途中から見た。ずいぶん退屈な映画であった。人間が人間を追っ駆け回す場面、人と人とが切り合う場面が全映画の長さの少なくも五割以上を占めているような気持ちがした。
 こういう映画の剣劇的立ち回りではいつでも実に不思議な一種特別の剣舞の型を見せられるような気がする。それは、できるだけ活発に縦横無尽に刀刃を振り回して、しかもだれにもけがをさせないという巧妙な舞踊を見せてくれる。それからまたたいていの人間なら疲れ果てて、へたばってしまうであろうと思われるような超人的活動を、望み次第にいくらでも続けて見せてくれるのである。映画でなければできないことである。
 子供の時分に老人から聞いた話によると、ほんとうの真剣勝負というものはこれとはまるでちがうものだそうである。にらみ合う時間ばかり長くて、刀の先がちょっとさわったと思うと両方一度にぱっと後ろへ飛びしざってまたにらみ合う。にらみ合うだけでだんだん呼吸がせわしくなって肩息になるのだという。聞いただけでもすごくなる。
 この種の映画でよくある場面は一群の人間と他の一群の人間とが草原や川原で追いつ追われつする光景をいろいろの角度からとったものである。人間が蟻《あり》か何かのように妙にちょこちょこと動くのが滑稽《こっけい》でおもしろい。
 千篇一律《せんぺんいちりつ》で退屈をきわめる切り合いや追っ駆けのこんなに多く編入されているわけが自分には了解できない。あるいは、これがいちばん費用がかからないためかとも思う。
 こういう時代物の映画で俳優たちのいちばんスチューピッドに見えるのは、彼らが何かひとかどの分別ありげな思い入れをする瞬間である。深謀遠慮のある事を顔に出そうとすればするほどスチューピッドになるのは当然のことである。
 日本の時代物映画も、もうそろそろなんとか頭脳の入れ換えをしたらどうかと思う。

     十四 食うか食われるか

 亀《かめ》と亀とが角力《すもう》をとって負けたほうが仰向けに引っくり返される。引っくり返されたが最後もう永久に起き上がる事ができないので乾干《ひぼ》しになるそうである。猛獣の争闘のように血を流し肉を破らないから一見残酷でないようでありむしろ滑稽《こっけい》のようにも見えるが、実は最も残忍な決闘である。精神的にこれとよく似た果たし合いは人間の世界にもしばしばあるが、不思議なことにはこういう種類の決闘は法律で禁じられていない。
 亀と王蛇《キングスネーク》とが行き会ってもお互いに知らん顔をしている。蛇《へび》にとっては亀は石ころと同様であり、亀にとっては蛇は動く棒切れとえらぶところがないらしい。二つの動物の利害の世界は互いに切り合わない二つの層を形成している。従って敵対もなければ友愛もない。
 王蛇とガラガラ蛇との二つの世界は重なり合っている。そこで食うか食われるかの二つのうちの一つしか道がない。
 この二つの蛇の決闘は指相撲《ゆびずもう》を思い出させる。王蛇のほうの神経の働く速度がガラガラ蛇のそれよりもほんの若干だけ早いために、前者の口嘴《くちばし》が後者のそれを確実に押えつけるものと見える。人間の撃剣や拳闘《けんとう》でも勝負を決する因子は同じであろうが、人間には修練というものでこの因子を支配する能力があるのに動物はただ本能の差があるだけであろう。
 王蛇《キングスネーク》がいたちのような小獣と格闘するときの身構えが実におもしろい見ものである。前半身を三重四重に折り曲げ強直させて立ち上がった姿は、肩をそびやかし肱《ひじ》を張ったボクサーの身構えそっくりである。そうして絶えずその立ち上がった半身を左右にねじ曲げて敵のすきをねらう身ぶりまでが人間そのままである。これはもちろん人間のまねをしているのではない、人間も蛇《へび》のまねをしているのではない。ただ普遍な適用性をもつ力学が無意識に合目的に応用されているだけであろうと思われる。「自然の設計」に機械的原理の応用されている一例としておもしろい見ものである。
 ガラガラ蛇が横ばいをするのも奇妙である。普通の蛇ではこんな芸当はできないのではないかと思う。これができるとできないとで決闘の際に大きなハンディキャップの開きがありそうである。運動の「自由度」が一つ増すからである。
 ペリカンのひながよちよち歩いては転倒する光景は滑稽《こっけい》でもあり可憐《かれん》でもある。鳥でも獣でも人間でも子供にはやはり子供らしい共通の動作のあることが、いつもこの種類の映画で観察される。たよりない幼いものに対する愛憐《あいれん》の情の源泉がやはり本能的なものだということが、よくのみ込めるような気がする。
 こういう映画はいくらあっても決して有り過ぎる心配のないものであろう。編集の巧拙などはほとんど問題にしなくてもよいかと思われる。

     十五 吼えろヴォルガ

 「燃え上がるヴォルガ」(俗名、吼《ほ》えろヴォルガ)を見た。映画はそれほどおもしろいとは思わなかったが、その中でトロイカの御者の歌う民謡と、営舎の中の群集の男声合唱とを実に美しいと思った。もっと聞きたいと思うところで容赦なく歌は終わってしまう。
 「ハイデルベルヒの学生歌」(俗名、若きハイデルベルヒ)でも窓下の学生のセレネードは別として、露台のビア・ガルテンでおおぜいの大学生の合唱があって、おなじみのエルゴ・ヴィヴァームスの歌とザラマンダ・ライベンの騒音がラインの谷を越えて向こうの丘にこだまする。
 ロシアでもドイツでも、男どうしがおおぜい寄り集まったときに心ゆくばかりに合唱することのできるような歌らしい歌をたくさんにもっているということは実にうらやましいことである。日本でも東京音頭やデッカンショがあると言えば、それはある。しかし上記のトーキーに出て来る二つの合唱だけに比べても実になんという貧しさであろう。
 これはトーキー作者の問題であると同時に、国民
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