映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1−13−23])
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)酔虎伝《すいこでん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|皿《さら》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)他のカットの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入
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     一 にんじん

 「にんじん」は忙しい時にちょっと一ぺん見ただけで印象の記憶も散漫であるが、とにかく近ごろ見たうちではやはり相当おもしろい映画の一つであると思われた。
 登場人物の中でいちばんじょうずな役者は主人公のにんじんである。少しも芝居くさいところがなくて実に自然に見える。幼い女の子も同様である。もっともこれは何もこの映画に限ったことではない。昔のジャッキー・クーガン以来小さい子供はみんなたいてい映画俳優として成効している。日本でも同様である。先日見た「エノケンの酔虎伝《すいこでん》」でもお客様に出してある菓子を略奪に出て来る男の子がどの俳優よりもいちばん自然で成効しているように思われた。このことは映画俳優の演芸が舞台俳優のそれと全くちがった基礎の上に立つべきものだということをわれわれに教えるものではないかと思われる。ロシア映画で教養も何もない農夫が最も光ったスターとして現われ、アメリカ映画でも土人のほうが白人の映画俳優の下っぱなどより比較にならぬほどいい芝居をして見せるのも同様な現象である。自然を背景とした芝居では人間もやはり自然な芝居をしなければつりあわないであろう。
 こういう意味からすれば、にんじんの父も母も女中もおじさんも皆少し芝居をし過ぎるような気もするが、しかし元来西洋人は日本人に比べると平生でも挙動がだいぶ芝居じみているから、あれぐらいはちょうどいいのかもしれない。
 この映画に現われるフランスの田舎《いなか》の自然は実に美しい。二十世紀のフランスにもまだこんな昔の田舎が保存されているかと思うと実にうらやましい気がした。コローやドービニーなどの風景画がそっくり抜け出して来たように思われてうれしかった。日本ではおそらくこんな所はめったに見られないであろう。そういう田舎の名づけ親のおじさんの所へ遊びに行ったにんじんが、そこの幼いマチルドと婚礼ごっこをして牧場を練り歩く場面で、あひるや豚や牛などがフラッシで断続交互して現われ、おじさんの紙腔琴《しこうきん》に合わせて伴奏をするところも呼吸がよく合って愉快である。そうした趣向がうまいのではなくて、ただその編集の呼吸がうまいのである。同じことをやるのでもドイツ映画だとどうしても重くるしくなりがちのように思われる。同じようにこの呼吸のうまい他の一例は、停車場の駅長かなんかの顔の大写しがちょっと現われる場面である。実になんでもないことだが、あすこの前後の時間関係に説明し難い妙味がある。
 女中が迎えに来て荷馬車で帰る途中で、よその家庭の幸福そうな人々を見ているうちににんじんの心がだんだんにいら立って来て、無茶苦茶に馬を引っぱたいて狂奔させる、あすこの場面の伴奏音楽がよくできているように思う。ほんとうにやるせのない子供心の突きつめた心持ちを思わせるものがある。
 池へ投身しようとして駆けて行くところで、スクリーンの左端へ今にも衝突しそうに見えるように撮《と》っているのも一種の技巧である。これが反対に画面の右端を左へ向いて駆けって行くのでは迫った感じが出ないであろう。
 妖精《ようせい》の舞踊や、夢中の幻影は自分にはむしろないほうがよいと思われた。
 この映画も見る人々でみんなちがった見方をするようである。自分のようなものにはこの劇中でいちばんかわいそうなは干物《ひもの》になった心臓の持ち主すなわちにんじんのおかあさんであり、いちばん幸福なのは動物にまでも同情されるにんじんである。そうして一等いい子になってもうけているのは世間の「父」の代表者であるところのおとうさんの村長殿である。

     二 居酒屋

 ゾラの「居酒屋」を映画化したものだそうである。原著を読んでいないからそれとの交渉はわからない。しかし普通のアメリカの小説映画とは著しくちがった特徴のあることだけはよくわかる。話の筋も場面も実に尋常普通の市井の出来事で、もっとも瘋癲病院《ふうてんびょういん》の中で酒精中毒の患者の狂乱する陰惨なはずの場面もありはするがいったいに目先の変わりの少ないある意味では退屈な映画である。それだけに、そうしたものをこれだけにまとめ上げてそうしてあまり退屈させないで興味をつないで行くには相当な監督の手腕と俳優の芸が必要であると思われた。酒で堕落して行くおやじの顔の人相の変化はほんとうらしい。
 いちばんおしまいの場面で、淪落《りんらく》のどん底に落ちた女が昔の友に救われてその下宿に落ち着き、そこで一|皿《さら》の粥《かゆ》をむさぼり食った後に椅子《いす》に凭《よ》ってこんこんとして眠る、その顔が長い間の辛酸でこちこちに固まった顔である。それが忽然《こつぜん》として別の顔に変わる。十年も若返ったような顔で目にはいっぱい涙がたまっている。堅く閉じた心の氷がとけて一陽来復の春が来たのである。そうして静かにこの一編の終末がフェードアウトするのである。この終末の取り扱い方にどこかフランス芸術に共通な気のきいた呼吸を見ることができるような気がする。

     三 世界の屋根

 この映画で自分のもっとも美しいと思った場面はおおぜいの白衣の回教徒がラマダンの断食月に寺院の広場に集まって礼拝《らいはい》する光景である。だがせっかくのこのおもしろい場面をつまらぬこしらえものの活劇で打ちこわしてしまっているのは惜しいことである。ラマ僧の舞踊[#「舞踊」は底本では「無踊」]の場面でも同様によけいな芝居が現実の深刻味を破壊してしまっている。
 回教徒が三十日もの間毎日十二時間の断食をして、そうして自分の用事などは放擲《ほうてき》して礼拝三昧《らいはいざんまい》の陶酔的生活をする。こういう生活は少なくとも大多数の日本の都人士には到底了解のできない不思議な生活である。
 ベナレスの聖地で難行苦行を生涯《しょうがい》の唯一の仕事としている信徒を、映画館から映画館、歌舞伎《かぶき》から百貨店と、享楽のみをあさり歩く現代文明国の士女と対照してみるのもおもしろいことである。人生とは何かなどという問題は、世界をすっかり見た上でなければうっかり持ち出せない問題だということは、こんな映画を見ても気がつくであろう。

     四 忠臣蔵

 日活の今度の大仕掛けの忠臣蔵は前半「刃傷編《にんじょうへん》」を見ただけである。なるほど数年前の時代活劇から比べるとだいぶ進歩したものだと思われる点はいろいろある。たとえば、勅使接待の能楽を舞台背景と番組書だけで見せたり、切腹の場を辞世の歌をかいた色紙に落ちる一片の桜の花弁で代表させたりするのは多少月並みではあるがともかくも日本人らしい象徴的な取り扱い方で、あくどい芝居を救うために有効であると思われた。しかしいちばん困るのは人間の芝居である。特にその対話である。吉良上野《きらこうずけ》のほうはだれがやるとしても比較的やさしいと思われるが浅野内匠《あさのたくみ》のほうは実際むつかしい。片岡千恵蔵《かたおかちえぞう》氏もよほど苦心はしたようであるが、どうも成効とは思われない。あの前編前半のクライマックスを成す刃傷《にんじょう》の心理的経過をもう少し研究してほしいという気がする。自分の見る点では、内匠頭はいよいよ最後の瞬間まではもっとずっと焦躁《しょうそう》と憤懣《ふんまん》とを抑制してもらいたい。そうして最後の刹那《せつな》の衝動的な変化をもっと分析して段階的加速的に映写したい。それから上野が斬《き》られて犬のようにころがるだけでなく、もう少し恐怖と狼狽《ろうばい》とを示す簡潔で有力な幾コマかをフラッシュで見せたい。そうしないとせっかくのクライマックスが少し弱すぎるような気がする。
 第二のクライマックスは赤穂《あこう》城内で血盟の後|復讐《ふくしゅう》の真意を明かすところである。内蔵助《くらのすけ》が「目的はたった一つ」という言葉を繰り返す場面で、何かもう少しアクセントをつけるような編集法はないものかと思われた。たとえば城代《じょうだい》の顔と二三の同志の顔のクローズアップ、それに第一のクライマックスに使われた「柱に突きささった刀」でもフラッシュバックさせるとか、なんとかもう一くふうあってもよさそうに思われた。
 滅びた主家の家臣らが思い思いに離散して行く感傷的な終末に「荒城の月」の伴奏を入れたのは大衆向きで結構であるが、城郭や帆船のカットバックが少しくど過ぎてかえって効果をそぐ恐れがありはしないか。自分がいつも繰り返して言うようにもし映画製作者に多少でも俳諧《はいかい》連句《れんく》の素養があらば、こういうところでいくらでも効果的な材料の使い方があるであろうと思われるのである。
 早打ちの使者の道中を見せる一連の編集でも連句的手法を借りて来ればどんなにでも暗示的なおもしろみを出すことができたであろうと想像される。そういうことにかけてはおそらく日本人がいちばん長じているはずだと思われるのに、その長所を利用しないのが返す返すも残念なことである。

     五 イワン

 ドブジェンコのこの映画にも前の「大地」と同様な静的な画面をつないで行く手法が目につく。堰堤《えんてい》工事の起重機や汽車の運動は、見ているとめまいを起こすほどであるが、しかしその編集法はやはり静的で動的でない。
 冒頭のドニエプル河畔の茫漠《ぼうばく》たる風景も静的である。こういう自然の中に生まれた国民のまねを日本人がしようとするのはほんとうに無意義なことである。
 この映画は文部省あたりの思想善導映画として使われうる可能性をもっている。これは皮肉ではない。
[#地から3字上げ](昭和九年六月、キネマ旬報)

     六 バンジャ

 映画「バンジャ」を見た。従来の猛獣映画に比べて多少の特色はあるようである。見えすいた芝居が比較的少ないので、見ていて気持ちがよく、退屈しなくてすむ。
 象が人間に使われて実によく命令を聞き、見かけに似合わず小まめに仕事をする。あれほど利口なこの動物がどうして人間の無力を見抜いてあばれださないか不思議に思われて来る。人間は知恵でこの動物を気ままにしていると思ってうぬぼれている。しかしこれらの象が本気であばれだしたら大概の人間の知恵では到底どうにもならなくなるのではないか。象が人間に負けているのは知恵のせいではない。協力ということができないだけが彼らの弱みではないかと思われる。協同した暴力の前には知恵などはなんの役にも立たないことは人間の歴史が眼前に証明している。
 犀《さい》というものがどうにも不格好なものである。しかしどうしてこれが他の多くの動物よりもより多く「不格好」という形容詞に対する特権を享有することになるのか。
 人間の使ういろいろな器具器械でも一目見てなんとなくいい格好をしたものはたいてい使ってぐあいがよい。物理学実験に使われる精密器械でさえも設計のまずい使ってぐあいの悪いようなのはどことなく見た格好が悪いというのが自分の年来の経験である。
 動物でも、なんとなしに不格好に見えるのはやはり現在の地球上に支配する環境の中で生活するのに不便なようにできているのではないかと思われてくる。犀などがだんだんに人間に狩り尽くされて絶滅しかけているという事実はたしかに彼らが現世界に生存するに不利益な条件を備えているためであろう。
 過去のある時代には犀のようなものが時を得顔に横行したこともあったのである。その時代の環境のいかなる要素が彼らの生存に有利であったかがおもしろい問題である。
 今から何万年の後に地球上の物理
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