的条件が一変して再び犀かあるいは犀の後裔《こうえい》かが幅をきかすようになったとしたら、その時代の人間――もし人間がいるとしたら――の目にはこの犀がおそらく優美典雅の象徴のように見えるであろう。そういう時代が来ないという証明は今の科学ではできそうもない。
 犀《さい》について言われることは人間の思想についてもほとんど同じように言われはしないか。
 この映画でいちばん笑わされるのは「めがね猿《ざる》」を捕えるトリックである。揶子《やし》の実の殻《から》に穴をあけその中に少しの米粒を入れたのを繩《なわ》で縛って、その繩の端を地中に打ち込んだ杭《くい》につないでおく。猿《さる》がやって来て片手を穴に突っ込んで米を握ると拳《こぶし》が穴につかえて抜けなくなる。逃げれば逃げられる係蹄《わな》に自分で一生懸命につかまって捕われるのを待つのである。
 ごちそうに出した金米糖《こんぺいとう》のつぼにお客様が手をさし込んだらどうしても抜けなくなったのでしかたなく壺をこわして見たら拳いっぱいに欲張って握り込んでいたという笑話がある。こんな人間はまず少ないであろうが、これとよく似た係蹄に我れとわが手にかかって人の虜《とりこ》になり生き恥をさらす人は実に数え切れないほど多数である。「めがね猿」ばかりを笑うわけにはゆかないのである。
 大蛇《だいじゃ》が豚を一匹丸のみにして寝ている。「満腹」という言語では不十分である。三百パーセントか四百パーセントの満腹である。からだの直径がどう見ても三四倍になっている。他の動物の組織でこんなに伸長されてそれで破裂しないものがあろうとはちょっと思われないようである。もっとも胎生動物の母胎の伸縮も同様な例としてあげられるかもしれないが、しかしこの蛇《へび》のように僅少《きんしょう》な時間にこんなに自由に伸びるのは全く珍しいと言わなければなるまい。これにはきっと特別な細胞や繊維の特異性があるに相違ないが、ちょっとした動物学の書物などには、こうしたいちばんわれらの知りたいようなおもしろいことが書いてないようである。
 主人公のバック氏が傘蛇《からかさへび》に襲われ上着を脱いでかぶせて取り押える場面がある。この場合は柔よく柔を制すとでもいうべきである。さすがの蛇《へび》もぐにゃぐにゃした上着ではちょっとどうしていいか見当がつかないであろう。この映画ではまた金網で豹《ひょう》や大蛇《だいじゃ》をつかまえる場面もある。網というものは上着以上にどうにもしようのない動物の強敵であるらしい。全く運命の網である。天網という言葉は実にうまい言葉を考えついたものである。押し破ろうとして一方を押せば、押したほうは引っ込んで反対側が自分をしめつける。
 大蛇が箱から逃げ出す場面で猿《さる》や熊《くま》の恐怖した顔のクローズアップを見せる。あの顔がよくできている。これに反して傘蛇《からかさへび》に襲われた人間の芝居がかりの表情はわざとらしくておかしく、この映画の中でいちばんまずい場面である。わが国の映画界のえらいスター諸君もちとあの猿や熊の顔を見学し研究するといい。

     七 漫画の犬

 このごろ見た漫画映画の内でおもしろかったのはミッキーマウスのシリーズで「ワン公大あばれ」(プレイフル・プルートー)と称するものである。その中で覚えず笑い出してしまった最も愉快な場面は、犬が蠅取《はえと》り紙に悩まされる動作の写真的描写である。鼻の頭にくっついたのを吹き飛ばそうとするところは少し人間臭いが、尻《しり》に膠着《こうちゃく》したのを取ろうとしてきりきり舞いをするあたりなど実におもしろい。それがおもしろくおかしいのは「真実」がおもしろくおかしいからである。犬が結局窓の日蔽幕《シェード》に巻き込まれてくるくる回る、そうなると奇抜ではあるがいっこうにおかしくない。それはもう真実でないからである。
 漫画の主人公のねずみやうさぎやかえるなどは顔だけはそういう動物らしく描いてあるが、する事は人間のすることを少しばかり誇張しただけである。結局仮面をかぶった人間に過ぎない。しかしこの犬だけはいつでも正真正銘の犬である。犬を愛し犬の習性を深く究《きわ》め尽くした作者でなければ到底表現することのできない真実さを表現している。
 この犬を描くのと同じ行き方で正真正銘の人間を描くことがどうしてできないのか。それができたらそれこそほんとうの芸術としての漫画映画の新天地が開けるであろうと思われる。現在の怪奇を基調とした漫画は少しねらいがはずれているのではないか。実在の人間に不可能で、しかも人間の可能性の延長であり人間の欲望の夢の中に揺曳《ようえい》するような影像を如実に写し出すというのも一つの芸術ではあるが、そうした漫画は精神的にはわれわれに何物をも与えず、ただ生理的にむしろ廃頽的《はいたいてき》な効果を与えるのみではないかという疑いがある。
 ドン・キホーテはここでいう人間の真実を描いた漫画映画の好題目である。しかし、せんだって上映されたシャリアピンの「ドン・キホーテ」はそういう意味ではむしろ不純なものであったかと思う。自分は今度見たミッキーマウスの中の犬を描いた筆法でドン・キホーテを描いた漫画映画の出現を希望したいと思うものである。

     八 一本刀土俵入り

 日本の時代ものの映画でおもしろいと思うものにはめったに出会わない。たいていは退屈でなければ冷や汗の出るようなものである。しかし近ごろ見た「一本刀土俵入り」だけはたしかに退屈せず気持よく見られた。
 第一にはカットからカット、場面から場面への転換の呼吸がいい。たとえばおつたと茂兵衛《もへえ》とが二階と下でかけ合いの対話をするところでも、ほんのわずかな呼吸の相違でたまらなく退屈になるはずのがいっこう退屈しないで見ていられるのはこの編集の呼吸のよさによるのである。おつたがなんべんとなく茂兵衛《もへえ》を呼び止めるのがいったいならくどくしつこく感ぜられるはずであるが、ここでは呼び止める一度一度に心理的の展開があって情緒の段階的な上昇があるから繰り返しがかえって生きてくるのである。これはもちろん原作のいいためもあろうが、この映画のこの点のうまさはほとんど全く監督の頭の良さによるものと判断される。
 けんかや立ち回りの場面も普通の映画では実に退屈に堪えないのが多いが、この映画のそうした場面は簡潔で要領がよくてかえってほんとうらしい。
 林長二郎《はやしちょうじろう》、岡田嘉子《おかだよしこ》の二人も近ごろ見た他の映画における同じ二人とは見ちがえるように魂がはいっている。映画には、俳優が第二義で監督次第でどうにでもなるという言明の真実さが証明されている。端役《はやく》までがみんな生きてはたらいているから妙である。
 最後の場面でおつたが取り落とした錦絵《にしきえ》の相撲取《すもうと》りを見て急に昔の茂兵衛のアイデンティティーを思い出すところは、あれでちょうど大衆向きではあろうが、どうも少しわざとらしい、もう一つ突っ込んだ心理的な分析をしてほしい。甦生《こうせい》した新しい茂兵衛が出現して対面してから、この思い出す瞬間までのカットの数が少しばかり多すぎるから思い出しがわざとらしくなるのではないか。あの間隔をもっとつめるか、それとも、もっと「あわただしさ」を表象するような他のカットの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入《そうにゅう》で置換したらあの大切なクライマックスがぐっと引き立って来はしないかと思われる。
 両国《りょうごく》の花火のモンタージュがある。前にヤニングス主演の「激情のあらし」でやはり花火をあしらったのがあった。あの時は嫉妬《しっと》に燃える奮闘の場面に交錯して花火が狂奔したのでずいぶんうまく調和していたが、今度のではそういう効果はなかったようである。しかし気持ちの転換には相当役に立っていた。
 衣笠《きぬがさ》氏の映画を今まで一度も見たことがなかったが、今度初めて見てこの監督がうわさにたがわずけた違いにすぐれた頭と技倆《ぎりょう》の持ち主だということがわかったような気がする。将来の進展に期待したい。ただし、このトーキー器械の科学的機構は未完成である。言語が聞き取れないために簡潔な筋のはこびが不明瞭《ふめいりょう》になる場所のあるのは惜しい。
[#地から3字上げ](昭和九年九月、文学界)

     九 カルネラ対ベーア

 拳闘《けんとう》というものはまだ一度も実見したことがない。ただ、時々映画で予期以外の付録として見せられることはあるが、今までこの競争に対して特別の興味をよびさまされることはついぞなかったようである。しかし、近ごろ見たカルネラ対ベーアの試合だけは実におもしろいと思った。自分は拳闘については全くの素人《しろうと》で試合の規則もテクニックもいっさい知らないのであるが、自分が最初からこの映画でおもしろいと思ったのはこの二人の選手の著しくちがった個性と個性の対照であった。
 カルネラは昔の力士の大砲《たいほう》を思い出させるような偉大な体躯《たいく》となんとなく鈍重な表情の持ち主であり、ベーアはこれに比べると小さいが、鋼鉄のような弾性と剛性を備えた肉体全体に精悍《せいかん》で隼《はやぶさ》のような気魄《きはく》のひらめきが見える。どこか昔日の力士|逆鉾《さかほこ》を思い出させるものがある。
 最初の出合いで電光のごときベーアの一撃にカルネラの巨躯がよろめいた。しかし第三回あたりからは、自分の予想に反して、ベーアはだいたいにおいて常に守勢を維持してばかりいるように見えた。カルネラはこれに対して不断に攻勢を取って、単調な攻撃をほぼ一様なテンポで繰り返しているように思われた。なんとなく少しあせりぎみで、早く片を付けようとして結末を急いでいるらしく自分には思われた。ちょっと見たところでは、ベーアのほうは負けかかって逃げ回っているようにも見られた。
 絶えずあとしざりをしているものを追いかけて突くのでは、相対速度の減少のために衝撃が弱められる、これに反して向かって来るのを突くのではそれだけの得がある、という事は力学者を待たずとも見やすい道理であるが、ベーアは明らかにこれを利用して敵の攻撃を緩和し、また敵の運動量を借りて自分の衝撃を助長しているように見えた。カルネラはそんなことなどは問題にしないと見えて絶えず攻勢を持続するのはよいが、やみなしに中庸な突きを繰り返しているのは、仕事の経済から見ても非常に能率の悪いしかたで、無益の動作に勢力をなしくずしに浪費しているように見えるのであった。ベーアはできるだけエネルギーを節約し貯蓄しておいて、稀有《けう》な有利の瞬間をねらいすまして一ぺんに有りったけの力を集注するという作戦計画と見られた。十回目あたりからベーアのつけていた注文の時機が到来したと見えて猛烈をきわめた連発的打撃に今までたくわえた全勢力を集注するように見え、ようやく疲れかかったカルネラの頽勢《たいせい》は素人目《しろうとめ》にもはっきり見られるようになった。
 第十一回目のラウンドで、審判者はTKOの判定を下してベーアの勝利となったが、素人がこの映画を見ただけでは、どちらもまだ何度でも戦えそうに見え、最後に気絶して起きられなくなるようなところはこの映画では見られなかった。
 とにかく体力と知力との戦いとして見るときに、自分のような素人《しろうと》にもこの勝負の特別な興味が感ぜられるのであった。
 カルネラは体重一一九キロ身長二・〇五メートル、ベーアは九五キロと一・八八メートルだそうで、からだでは到底相手になれないのである。
 しかし闘技中にカルネラは前後十二回床に投げられた。そのうちの一回では踝《くるぶし》をくじかれ、また鼻をも傷つけられ、その上に顔じゅう一面「パルプのように」ふくれ上がり、腹や脇腹《わきばら》にはまっかな衝撃の痕《あと》を印していたそうである。
 マクス・ベーアはサンフランシスコ居住のユダヤ系の肉屋だそうである。この「ユダヤ種」
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