全体の音楽的生活に関する問題でもある。

     十六 ある夜の出来事

 ゲーブルとコルベールの「ある夜の出来事」は、いかにもアメリカ映画らしい一種特別なおもしろみをもっている。この映画の中で、自分の座席の付近の観客、ことに婦人の観客がさもおもしろそうにおかしそうにまたうれしそうに笑い出した場面が二つある。一つは雨夜の仮の宿で、毛布一枚の障壁を隔てて男女の主人公が舌戦を交える場面、もう一つは結婚式の祭壇に近づきながら肝心の花嫁の父親が花嫁に眼前の結婚解消をすすめる場面である。
 婦人の観客は実にうれしそうに笑っていたようである。こういうアメリカ映画が日本の婦人の思想に及ぼす蓄積的な影響は存外ばかにならないであろうという気がした。
 「映画と道徳」という一つの大きなテーマが暗示される。この映画や、それからたとえばせんだっての「人生の設計」なども、この大きな問題を考究するときの資料になるべきものであろう。
 映画の世界の道徳は人間の世界の道徳とは必ずしも一致しなくてもよい。それは世界がちがうからである。しかし、一般の観客にはこの二つの世界の相違が明白に意識されていない。それで、映画の世界で可能なすべての事が人間の世界でも同程度に可能だというような錯覚を起こすのは自然の傾向である。
 しかしまた、現在映画の世界にのみ存する事象が将来現世界に可能とならないという証拠もないとすると、現在の映画の夢は将来の現実の実相を導き出す先駆となり前兆とならないとも限らない。ここに重大な問題の骨子があるような気がするのである。これはぜひともしかるべき人々の慎重な考究にまつべきではないかと思う。
[#地から3字上げ](昭和九年十月、映画評論)



底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
※「フラッシ」と「フラッシュ」の混在は、底本の通りとしました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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