に波が高くて、舳部《じくぶ》に砕ける潮の飛沫《ひまつ》の中にすべての未来がフェードアウトする。伴奏音楽も唱歌も、どうも自分には朗らかには聞こえない。むしろ「前兆的」な無気味な感じがするようである。
 海岸に戯れる裸体の男女と、いろいろな動物の一対との交錯的|羅列的《られつてき》な編集があるが、すべてが概念的の羅列であって、感じの連続はかなりちぐはぐであり、従って、自分のいわゆる俳諧的《はいかいてき》編集の場合に起こるような愉快な感じは起こらない。人間も動物も同じものに見えてくることも自分にはあまり愉快でない。
 動物のように戯れ、動物のように子供を生むだけの事ならば人生は謳歌《おうか》すべきものとは自分には思われない。
 作者はロシア人でも映画は純粋なドイツ映画である。ロシア映画にはもう少しのんびりした愉快な所もあるはずである。一応わかった事をどこまでも執拗《しつよう》にだめを押して行くのがドイツ魂であって、そのおかげで精密科学が発達するのであろう。
 この種類の映画がこの方向に進歩したらおしまいにはドイツの古典音楽のようなものができるという可能性があるかもしれない。そういう意味ではこ
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