りもやはりそうである。庭作りもまたそれである。かしこの山ここの川から選《よ》り集めた名園の一石一木の排置をだれが自由に一寸でも動かしうるかを考えてみればよい。しかもこれらのいっさいを一束にしても天秤《てんびん》は俳諧連句のほうへ下がるであろう。
 連句はその末流の廃頽期《はいたいき》に当たって当時のプチブルジョア的有閑階級の玩弄物《がんろうぶつ》となったために、そういうものとしてしか現代人の目には映らないことになった。しかし本来はそれどころか実に深刻な時代世相の端的描写であり、そうして支配階級よりはより多く被支配階級の悲痛な忍苦の表現をもそれらの中に看取することができるのである。
 こういう、エイゼンシュテインのいわゆる映画術の骨髄を昔から伝えきたったその日本現在の映画は誠に彼の言うとおり、どうヒイキ目に見ても残念ながらいくらもこれを具備していないようである。これはしかし日本映画製作者だけの責任ではないので、これと同様な批評はまさに今の日本文化の全体にわたって適用さるべきであろう。
 しかし失望するには当たらない。大昔から何度となく外国文化を模倣し鵜《う》のみにして来た日本にも、いつか一度は光琳《こうりん》が生まれ、芭蕉《ばしょう》が現われ、歌麿《うたまろ》が出たことはたしかである。それで、映画の世界にもいつかはまたそうした人が出るであろうという気長い希望をいだいてそうしてそれまでは与えられたる「荒木又右衛門《あらきまたえもん》」を、また「街《まち》のルンペン」をその与えられたる限りにおいて観賞することに努力すべきであろう。
[#地から3字上げ](昭和六年六月、時事新報)

       四

「アフリカは語る」を一見した。この種の実写映画は何度同じようなものを見せられても見るたびに新しい興味を呼びさまされるのであるが、今度のはそれが発声映画であるだけにいっそう実証的の興味を増しているようである。
 いちばん珍しいのは空をおおうて飛翔《ひしょう》する蝗《いなご》の大群である。これは写真としてはリリュストラシオンのさし絵で見た事はあったが、これが映画になったのはおそらく今度が始めてであり、ことに発声映画としてはこれがレコードであるにちがいない。蝗《いなご》の羽音がどれだけ忠実に再現されているかは明らかでないがともかくも不思議な音である。聞いたことのないものには想像することのできない音である。いくらか似た音を求めれば、製材所の丸鋸《まるのこ》で材木を引き割るあの音ぐらいなものであろう。先年|小田原《おだわら》の浜べで大波の日にヘルムホルツの共鳴器を耳に当て波音の分析を試みたことがあったが、かなりピッチの高い共鳴器で聞くとチリチリチリといったように一秒間に十回二十回ぐらいの割合で断続する轢音《れきおん》が聞こえる、それがいくらかこの蝗群の羽音に似通《にかよ》っているのである。やはり、音の生成機巧に共通なところがあるからであろう。すなわち、浜べで無数の砂利《じゃり》が相打ち相きしるように無数の蝗の羽根が轢音を発している、その集団的効果があのように聞こえるのではないかと思われる。そういえば丸鋸で材木をひく時にもこれに似た不規則な轢音の急速な断続があるのである。
 この蝗の羽音は何を語るか。蝗は何を目的として何物に導かれてどこからどこへ移動するか。世界は自分らのためにのみできているとばかり思っているわれわれ愚かな人間は茫然《ぼうぜん》としてテントの小窓からこの恐ろしい生命のあらしをながめてため息をつくであろう。
 湖畔のフラミンゴーの大群もおもしろい見物《みもの》である。一面におり立った群れの中に一か所だけ円形な空地があるのはどういうわけかと思って考えてみた。おそらくそこだけ湖底に凹所《おうしょ》があって鳥の足には深すぎるので、それでそこだけが明いているのだろうと想像された。もしそうだとすれば鳥の群れの写真から湖底の等深線の一つがわかるはずである。こういうことも実写映画のおもしろみの一つである。群集から少し離れた前面を二列に並んだ鳥の縦隊が歩調をそろえて進行するところがある。鳥はどういう気でなんのためにああいう事をやっているのか人間にはやはりわからない。
 この映画を見た晩に宅《うち》へ帰って夕刊を見ると早慶三回戦だかのグラウンドの写真が大きく出ている。それを見たとき自分は愕然《がくぜん》として驚いたのであった。場を埋《うず》むる人間の群れが、先刻見たばかりの映画中のフラミンゴーの群れとそっくりに見えたからである。もしやアフリカのフラミンゴーが偶然球戯場の空へ飛んで来て人間の群れを見おろしたとしたら、彼らにはやはりこの集団の意味はわからないであろう。実はこういう自分にも近ごろの野球戦に群がる人間の大群の意味は充分完全にはよくわからないのである。
 しかし蝗《いなご》やフラミンゴーに限らず、ゼブラでもニューでも、インパラでもジラフでもみんな群れをなして棲息《せいそく》している。アフリカでは食うことの不自由はないであろうからやはり生命の敵に対する防衛の便宜から自然に集団生活に慣らされたのか、それとも生殖の便宜からか、あるいはスポーツのためだか自分にはわからない。それはとにかくアフリカ映画でこれらのたくさんな動物の群れの中に交じった少数な人間の群れを見ると、アフリカの原野では少なくとも動物も人間も対等の存在であるという感じがする。それをいわゆる文明人が出かけて行って単なる娯楽のためにムザムザ殺すのがどうも不都合だという気がしてくる。
 酋長《しゅうちょう》のむすこがライオンに食われる場面がある。あれはどうも映画師がほとんど計画的に食わせるように思われて不愉快であった。白人にとっては黒人はおそらくゼブラや疣猪《いぼいのしし》とたいしてちがったものには思われてないのではないかという気がしてならない。黄色人はどの程度に思われているのかが次の問題になる。西洋のある国が世界を征服する日を夢みているような日本人があったら、そういう人はこの映画を見るといいと思う。
 この酋長《しゅうちょう》の子が食われたので、映画師らは酋長に合わせる顔がないといってしょげる場面はどうも少し芝居じみる。A life for a life というタイトルが出たから映画師が殺されるかと思ったら、そうでなくてやはりライオンが一匹やられるのである。しかしライオンなどは少しも芝居しないから愉快である。ライオンが自動車のタイアを草原に見いだして前足でつついてみては腹を立ててうなる場面は傑作である。ライオンがふきげんであればあるほど観客は笑うのである。もしか自分がライオンだったら、この不都合な侵入者らに対してどんなに腹の立つことであろう。
 アフリカは世界の動物園、野獣の楽園として永久に保存したい。天然物保存地帯として少なくもこの大陸内地の大部分を万国協定で指定してほしいと思うのである。
 獅子《しし》のいる草原の中にどうも地震による断層らしく見えるものが写っている。あとで地震学者に聞いてみると、あのタンガニイカ湖付近には実際大地震による断層が縦横に通っているのである。この一部が偶然にライオンの背景の中に出ているのも実写映画の妙味である。
 蛮人の顔のクローズアップにはこの映画に限らず頭の上をはう蠅《はえ》が写っている。この蠅がいわゆる画竜点睛《がりょうてんせい》の役目をつとめる。これを見ることによってわれわれは百度の気温と強烈な体臭を想像する。この際蠅はエキストラでなくてスターである。しかし監督の意図など無視して登場し活躍しているからおもしろい。
 蛮人の王城らしい建物が映写される。この建物はきわめて原始的であるが一種の均整の美をもっている。素人目《しろうとめ》にはわが大学の安田講堂《やすだこうどう》よりもかえって格好がいいように思われる。デテイルがないだけに全体の輪郭だけに意匠が集注されるためかもしれない。
 インパラという動物の跳躍も見物《みもの》である。十数尺の高さを水平距離で四十尺も一飛びにとぶのである。何か簡単な器械を人間のからだへつけて、この動物のようにとんで歩くスポーツを発明したらおもしろいかもしれないという気がした。
 こういう実写を見ているとつくづく人間のこしらえた映画のばかばかしさを感じる。天然の芸術にはかなわぬことは始めからわかっていることではあるが。
[#地から3字上げ](昭和六年十一月、東京帝国大学新聞)

       五

「三文オペラ」を見た。文明のどん底、東ロンドンの娼家《しょうか》の戸口から、意気でデスペラドのマッキー・メッサーが出てくる。その家の窓からおかみが置き忘れたステッキを突きだすのを、取ろうとすると、スルスルと仕込みの白刃が現われる。ドック近くの裏町の門々にたたずむ無気味な浮浪人らの前をいばって通り抜けて川岸へくると護岸に突っ立ったシルクハットのだぶだぶルンペンが下手《へた》な掛け図を棒でたたきながら Die Moriat von Mackie Messer を歌っている。伴奏に紙腔琴《しこうきん》をまわしているばあさんの横顔が象徴的である。背景には岸近くもやった船の帆柱の林立がある。掛け図には殺されて倒れている人や、ソホの火事場の粗末な絵の見えるのもちょっとした効果がある。ここの場面がいちばん昔の東ロンドンの雰囲気《ふんいき》を濃厚に現わしているように思われる。これと、ずっと後に警察で電話をかけたりする場面とはどうも全く別の世界のような気がする。ポリー母子《おやこ》がミリナーの店の前で飾り窓の中のマヌカンを見ている。そこへ近づくメッサーの姿が窓ガラスに映ってだんだん大きくなるのが印象的な迫力をもっている。「烏賊《いか》」ホテルの酒場のガラス窓越しに、話す男女の口の動きだけを見せるところは、「パリの屋根の下」の一場面を思いだす。
 メッサーの手下が婚礼式場用の椅子《いす》や時計を盗みだすところはわりによくできている。くどく、あくどくならないところがうまいのであろう。倉庫の暗やみでのねずみのクローズアップや天井から下がった繩《なわ》にうっかり首を引っかけて驚いたりするのも、わざとらしくない。そうして塵埃《じんあい》のにおいが鼻に迫る。
 結婚式場のぎょうぎょうしくて派手で、それでいて実に陰惨でグロテスクな光景もよくできている。ここでポリーの歌う Barbara Song はなかなか美しい。セットのおぼろ夜の空とおぼろ月がかえって本物より効果がいいようである。
 情婦ジェニーが市松模様《いちまつもよう》のガラス窓にもたれて歌うところがちょっと、マチスの絵を見るような感じである。
 乞食頭《こじきがしら》のピーチャムのする芝居にはどうも少ししっくりしないわざとらしさを感じる。
 この映画の前半はいかにも昔のロンドンのような気分があるのに後半はなんとなく近代のベルリーンあたりのような気持ちになるのが不思議である。それで前半ではドイツ語が不自然に聞こえ、後半ではそれが当然に聞こえる。
 音楽はなかなかおもしろい。同じジャズの楽器でもドイツ人の手にかかると、こうも美しくなるものかと感心させられる。あのサキソフォーンでさえも実に味のこまやかな音として聞かれる。アメリカのジャズはなるほどおもしろいと思う時はあっても、自分にはどうも妙な臭みが感ぜられる。たとえば場末の洋食屋で食わされるキャベツ巻きのようにプンとするものを感じる。これはおそらくアメリカそのもののにおいであろう。しかしこのクルト・ワイルのジャズ(?)にはそれがみじんもなくて、ゲーテやバッハを生んだドイツ民族の情緒が濃厚ににじみだしている。そうしてそれでいて同時にまたどれにもどこかしら Gallow Song しかもやはりイギリスらしいそれの味がしみじみとかみしめられるような気もするのである。最後に町の暗やみの中に幽霊のように消えて行くルンペンの行列とともにゆるやかに句切って再び響くモリアットの歌も、スクリーンの前の幕がおりて席を立ってそうして往来へ出て後までもいつまでも耳に残って
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