映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1−13−21])
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)舷側《げんそく》で押しくずされる

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|陋巷《ろうこう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和五年十一―十二月、東京帝国大学新聞)
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       一

「バード南極探険」は近ごろ見た映画の内でおもしろいものの一つであった。これまでにも他の探険隊のとった写真やその記事などをいろいろ見てかなりまでは極地の風物の概念を得たつもりでいたのだが、しかし活動映画として映しだされたのを見ると、ただの静映像で見ただけでは到底想像のできなかったいろいろの真実をありありと見せられ体験させられるのである。たとえば流氷のようなものでも舷側《げんそく》で押しくずされるぐあいや、海馬《せいうち》が穴から顔をだす様子などから、その氷塊の堅さや重さや厚さなどが、ほとんど感覚的に直観される。雪原の割れ目などでも、橇《そり》で乗り越して行く時にくずれるさまなどから、その割れ目の状況や雪の固まりぐあいなどが如実に看取されるのである。
 食糧品を両側に高く積み上げた雪中の廊下の光景などもおもしろい。食糧箱の表面は一面に柔らかい凝霜でおおわれていて、見ただけではどれがなんだかわからないが、糧食係の男は造作《ぞうさ》もなく目的の箱を見いだして、表面の凝霜をかきのけてからふたを開き中味を取り出す。この廊下一面の凝霜の少なくも一部分は、隊員四十余名の口から吐きだされた水蒸気がこの廊下へ拡散して来て徐々に凝結したものではないかと想像してみた。そう想像することによって隊員の忍苦の長い時間的経過を味わうことができる。
 バードが極飛行から無事に屯営《とんえい》に帰って来たのを皆が狂喜して迎え、機上から人々の肩の上にかつぎ上げて連れてくる。その時バードの愛犬が主人に飛びつこう飛びつこうとするのだが人々にさえぎられて近寄れず不平でむやみに駆け回っているがだれも問題にしてくれない。これもおもしろい場面である。それからバードが宿舎にはいってくるとたれかが熱いコーヒー(?)を一杯持ってくる。それを一口飲んだ時の頬《ほお》の筋肉の動きにちょっと説明のできない真実味があると思った。
 病犬を射殺するやや感傷的な場面がある。行きには人と犬との足跡のついた同じ道を帰りはただ人だけが帰ってくるのである。安価な感傷と評した人もあったがしかしそれがかなりな真実味をもって表現されている。殺す相談をして雪の中に立っている四人の姿がよくできている。
 この映画ではそのほかにも犬が非常に活躍していて、この映画の現実味を助けている。地質学者の一隊が中継ぎのステーションへ向かって突進する、その荷物を橇《そり》で引いて行く犬群の頼もしく勇ましい姿は何かしらわれわれの心の奥底に触れる美しさをもっている。人間はそれぞれの明白な心の目標があって、それに向かわんために充分納得して寒苦と戦っているが、犬はなんのためだか、ちっともわからないで、ただたよる主人の向かう所なら、さもうれしげに死の雪原に突進するのである、犬でもやはり苦しくなくはないであろう。
 同じことは映画「沈黙の敵」の中の犬についてもいわれる。しかしこの映画でもっともおもしろいのは、雪の林中でのトナカイと犬との格闘の場面である。トナカイが死地に陥って敢然たる攻勢を取り近寄る犬どもを踏みつぶそうとする光景は獣類とはいえ悲壮である。いかなる名優の活劇でも、これに比べてはおそらく茶番のようなものである。それからの後の場面で荒涼たる大雪原を渡ってくるトナカイの大群の実写は、あれは実に驚くべき傑作である。理屈なし説明なしに端的にすべての人の心を奪う種類のフィルムであり、活動映画というものの独自な領域を鮮明に主張したものである。絵ではもちろんのこと、いかなる言葉でもまた音楽でも、かくのごとき映画を説明することは不可能であろう。それにしてもこの映画に現われた人間の芝居がいかにしてあれほど愚鈍で不愉快であるかが不思議である。少なくも映画俳優としては人間は犬やトナカイの脚下にひざまずいて教えをこう必要がある。
 これと連関して自分の常に感ずることは、映画に現われる「機械」の真実不真実による価値の懸隔である。古い映画では「メトロポリス」に現われた機械のばからしさなどが代表的である。機械文化の頂点を示すべき映画の中で、一人の職工は有り余っているべき動力の洪水《こうずい》の中にいながら、最も原始的なその筋肉エネルギーを極度に消費して大きなダイアルの針を回し、そうして、疲れ切って倒れ、そのために大破壊が起こったりする。あの魯鈍《ろどん》な機械に比べて「ベルリーン」に映出される本物の機械の美しさは、実に見ていて胸がすくようである。同じ意味でソビエト映画「トルクシヴ」に現われる紡績機械もおもしろい。そうして「自然の破壊」(Blasting Excavator)における大仕掛けの機械架構が、どうも物足りなく思われるのである。
「トルクシヴ」もかなりおもしろいと思って見物した。いわゆるモンタージュの芸当をあまりにわざとらしく感じさせるようなところもある。たとえば紡績機械の流動のリズムと、雪解けの渓流《けいりゅう》のそれと、またもう一つ綿羊の大群の同じ流れとの交互映出のごときも、いくらかそうである。しかしこういう流動に、さらに貨物車の影がレールの上を走るところなどを重出して、結局何かしら莫大《ばくだい》な運動量を持ったある物が加速的にその運動量を増加しつつ、あの茫漠《ぼうばく》たるアジア大陸の荒野の上を次第に南に向かって進んでいるという感じがかなりまで強く打ちだされていることは充分に認められる。
 これに比べて「アジアのあらし」は全体として見ると自分にはどうもあまりおもしろくなかった。これは自分が「赤いめがね」を持ち合わせないせいかもしれない。ただこの映画に現われる多数多様のアジア人種の顔つきや表情は、注意して見ているとなかなか興味がある。毛皮市場や祭礼の群衆の中にわれわれの親兄弟や朋友《ほうゆう》のと同じ血が流れている事を感じさせられ、われわれの遠い祖先と大陸との交渉についての大きな疑問を投げかけられるのであった。最後のクライマックスとして、荒野を吹きまくる砂風に乗じていわゆる「アジアのあらし」が襲来する場面がある。これは自分のようなテンポののろい頭には少しごたごたしすぎているような気がした。ただ錯雑した混乱のあらしの中に、時々瞬間的に映出される白馬のたてがみを炎のように振り乱した顔の大写しは「怒り」の象徴としてかなりに強い効果をもっていたようである。
「西部戦線異状なし」は、今日の映画としては、別にこれといって頭に残るほどのものもなかったようである。ただあまりわざとらしいような芝居が割合に少なく思われたのは成効かもしれない。河畔の営舎の昼飯後の場面が、どこかのどかでものうげで、そうして日光がまぶしいといったような気持ちをだしている。そこにかえって「裏側から見た戦争」というものがわりによく出ているようである。こういう所のおもしろみはやはり映画にのみ可能なものであろう。そうして、言葉の説明でつかまえようとするとふいと消えてしまう不思議なかげろうのようなものである。それでいて、もっとも確実に見る人の心を動かす動力となりうるものである。一口でいってしまえるような効果だけを並べようとした映画はどうもおもしろくないようである。この点で存外ロシア、ドイツのえらい理論家たちがかえってアメリカへんの「純無意義映画」から新しい「火」をもらってくる必要がありはしないかという気がする。
[#地から3字上げ](昭和五年十一―十二月、東京帝国大学新聞)

       二

「モロッコ」という発声映画を見た。まず一匹の驢馬《ろば》が出現する。熱帯の白日に照らされた道路のはるか向こうから兵隊のラッパと太鼓が聞こえて来る。アラビア人の馬方が道のまん中に突っ立った驢馬をひき寄せようとするがなかなかいこじに言うことを聞かない。馬方はとうとう自分ですべって引っくりかえって白いほこりがぱっと上がる。おおぜいがどっと笑う。これが序曲である。
 一編の終章にはやはり熱帯の白日に照らされた砂漠《さばく》が展開される。その果てなき地平線のただ中をさして一隊の兵士が進む。前と同じ単調な太鼓とラッパの音がだんだんに遠くなって行く。野羊《やぎ》を引きふろしき包みを肩にしたはだしの土人の女の一群がそのあとにつづく。そうしていちばんあとから見えと因襲の靴《くつ》を踏み脱ぎすてたヒロインが追いかける。兵隊の旗も土人の子もみんな熱砂の波のかなたにかくれて、あとにはただ風の音に交じってかすかにかすかに太鼓とラッパの音が残り、やがてそれも聞こえなくなるのである。
 この序曲からこの大団円に導く曲折した道程の間に、幾度となくこの同じラッパの単調なメロディと太鼓の単調なリズムが現われては消え、消えてはまた現われる。ラッパはむしろ添え物であって、太鼓の音の最も単純なリズムがこの一編のライトモチーフであり、この音の弛張《しちょう》が全編のドラマの曲折を描いて行くのである。ヒロインの心臓はこの太鼓の音と共に生き共に鼓動する。そうして彼女の心の態度はこのライトモチーフの現われるたびごとに急角度で転回する。そうしてその一転ごとにだんだんにそうして不可避的に最後のクライマックスに近づいて行くのである。
 太鼓の描くこの主題の伴奏としてはラッパのほかに兵隊の靴音《くつおと》がある。これがある時は石畳みの街路の上に、ある時は岩山の険路の上にまたある時は砂漠《さばく》の熱砂の上に、それぞれに異なる音色をもって響くのである。
 これらの音につれてスクリーンに現われる映像は、ただの殺風景な兵隊の行列である。これがその場面場面でいろいろの違ったパースペクチヴで銀幕上に映出され進行する。始めにヒロインとその保護者がこの行列を見送る場面ではヒロインと観客は静止していて行列はその向こう側を横に通過する。次にこの行列の帰還を迎える場面でも行列はやはりわれわれ観客の前を横に通過するのであるが、ここでは前と反対にヒロインがその行列の向こう側に見え隠れにあわただしく行ったり来たりしてカメラはこの女の行動と表情を子細に追跡する。そうして女の心の中に刻々につのって行く不安と焦燥をこくめいに映出するのである。最後の場面ではこの兵士の行列は前とは直角だけ回転している。すなわち観客を背にして遠い砂漠の果ての地平線に向かって進行する。そうする事によってこのドラマの行く手の運命の茫漠《ぼうばく》たる事を暗示している。そうして観客の眼前でこの行列とそれに従うヒロインとは熱砂の波のかなたにありありと完全に消えてしまうのである。
 この映画に取り扱われた太鼓の主題はたしかにヒロインの愛の対照のライトモチーフとしての役目を立派に果たしていると思われる。こういう点でこの映画は一つのおもしろい試みである。そうして少なくも有声映画に特有な一つの新しい可能性を指摘する点においてかなりの程度まで成効したものと思われる。
 音的主題に最も単調な太鼓が選ばれ、そうしてそれがこれほどに成効しているということはわれわれに何事かを暗示する。元来有声映画はもちろん音楽ではない。われわれは聴覚と視覚を同時に働かせる事を要求される。この場合にもしあまりに複雑な、それ自身の存在を強く主張するような音楽を持ち込んだとしたらどうであろう。おそらくわれわれの注意はその音楽のほうに吸収されて視覚のほうが消えてしまうか、あるいはかえって音楽のほうがわれわれの注意の圏外を上すべりにすべり越してしまうことになりはしないか。ともかくもこれは発声映画製作者に一つの問題を提出するものであろう。
 この映画に取り入れられた僅少《きんしょう》な音楽もかなりに有効に使われている。ヒロインが病院の病室を一つ一つ見回って愛人を
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