忘れ難いものである。
この映画を見た前夜にグスタフ・マーラーの第五交響楽を聞いた。あまりにも複雑な機巧に満ちたこの大曲に盛りつぶされ疲らされたすぐあとであったので、この単純なしかし新鮮なフィルムの音楽がいっそうおもしろく聞かれたのかもしれない。そうしてその翌晩はまた満州《まんしゅう》から放送のラジオで奉天《ほうてん》の女学生の唱歌というのを聞いた。これはもちろん単純なる女学生の唱歌には相違なかったが、しかし不思議に自分の中にいる日本人の臓腑《ぞうふ》にしみる何ものかを感じさせられた。それはなんと言ったらいいか、たとえば「アジアの声」を聞くといったような感じであった。アメリカのジャズとドイツのジャズとの偶然な対比の余響からたまたまそういう気がしたかもしれない。
それにしてもわれわれ生粋《きっすい》の日本人のほんとうに要求する音映画はまだどこにもない。そういったような気がするのであった。われわれの要求するものはやはり日本のパブストであり、日本のルネ・クレールであろう。こういつまでも外国のものの封切りを追いかけては感心させられる事に忙しいのでは困るという気もした。
これより前にソビエト映画「婦人の衛生」を見た。これは「三文オペラ」とは全然別の畑のもので、ほとんど純粋な教育映画としか思われないものであったが、それでも一つ一つのシーンにもまた編集の効果にもなかなか美しいものが多数に見られるのであった。ムジークのお客さんには少しもったいなくもあるし、またわかりにくそうにも思われるくらいであった。ただこの映画を見ているうちに感じた一つのことは、この映画に使われている子供や女工や、その他の婦人の集団やがちょうど機械か何かのように使われていることである。これを見ていると、なんだか現在のロシアでは三度のめしを食うのでもみんな号令でフォークやナイフを動かしているのではないかというような気がして来て、これでは自分のようなわがままな人間はとてもやりきれないだろうという気がするのであった。たとえば工場の仕事の合間に号令一下で体操をやってまた仕事にとりかかる。海岸で裸で日光浴をやっているオットセイのような群れも号令でいっせいに寝返りを打ってこちらを向く。おおぜいの子供が原っぱに小さなきのこの群れのように並んで体操をやっている。赤ん坊でもちょうど蛙《かえる》か何かのように足をつかまえてぶらさげてぴょんぴょんとはねさせるのである。こういうふうに人間の個性をなくしているところは全く軍隊式である。年じゅうこのとおりだったら梟《ふくろう》やたぬきのような種類の人間にはさぞ都合が悪いことであろうと思われたのであった。これはこの映画を見たときにちょっとそう思ったことである。
この映画でもっとも美しいと思ったのはアパートのバルコンのような所へおおぜいの女が出て来て体操をする光景である。これは全く理屈なしに明るく力強く新鮮で朝日ののぼるごとき感じのするシーンである。同じ体操でも前の工場の体操とはまるで別な感じがするのは不思議である。工場の場合にはすぐ前の労働のシーンとの関係上あまりに実感的であるのにバルコンのほうではそれがあまりに見なれぬ変わった光景であるために、あっけにとられて現実の感じがどこかへ飛んでしまい、いわばレビューでも見るような気になって見たせいかもしれない。しかしどうだかそれはわからない。
この映画と同時にロシアのニュース映画を見た中に、たぶんカリニンであったか、野羊《やぎ》ひげのにがい老人が展覧会を見てあるくところがあった。この映画を見ながら、英雄崇拝は結局永久普遍に不可避的な人間界の事実だというような気がした。われわれが見るとムッソリニが閲兵式に臨んでいるニュース映画もこれと全く同格な現象のニュースとして実におもしろく見られるのである。
[#地から3字上げ](昭和七年三月、東京帝国大学新聞)
六
評判のフランス映画「パリの屋根の下」というのを見物した。同じく評判のドイツ映画「青い天使」のすぐあとでこのフランス的なるフランス映画を見たことは望外のおもしろい回り合わせであった。さもしい譬喩《ひゆ》ではあるが、言わばビフテキのあとで良いサラダを食ったような感じがある。あるいはまたドイツの近代画家の絵とフランス近代画家の絵との二つの展覧会を続けて見たという感じもする。これは当然なことであろうが、しかしこれほどまでに二つのちがった国民に対する自分の感じの特徴を表象した二つの映画をこのように相次いで見うるという機会はそう始終はないであろう。そうしてもう一つおもしろいことには、そのあとでまた、無声ではあるが、ソビエト映画の「大地」を見て、そして最後に大日本松竹国産発声映画「マダムと女房」というのを見ることになったのも思えば妙な回り合わせである。
「パリの屋根の下」にはたいしたドラマはない。ちょっとしたロマンスはあるが、それはシャボン玉のようなロマンスである。ちょっとしたけんかはあるがそれもシャボン玉のようなけんかである。ピストルも一発だけ申し訳にぶっ放すが結果は街燈を一つシャボン玉のようにこわすだけである。この映画の中に現われている限りの出来事と達引《たてひき》とはおそらくパリという都ができて以来今日に至るまでほとんど毎日のようにどこかの裏町どこかの路地で行なわれている尋常|茶飯《さはん》のバナールな出来事に過ぎないであろう。それほどに平凡な月並み、日並み、夜並みの市井の些事《さじ》がカメラと映写機のレンズをくぐり録音器の機構を通過したというだけでどうして「評判の映画」となり、世界じゅうの常設館に渡り渡って人を呼ぶであろうか。もちろん観客の内の一部はたぶんそれが評判の映画であるために見ないうちから感心してそうして無条件にその評判をのみ込んでしまうであろうが、すべての観客はそれほどの鵜《う》の鳥でない限りこの評判には何かの実証的根拠があるはずであろう。
この映画にもやはりだれでもすぐに気のつく、そうしてだれにでも簡単な言葉で表現されうるようなうまい見せ場はたくさんある。たとえばいちばん始めに映出される屋上の「煙突のある風景」が最後にもう一度現われて、この一巻の「パリのスケッチ」の首尾の表軸となり締めくくりをつけていることなどがそれである。また始めにはカメラが、従って観客が、あたかも鳥にでもなったように高い空からだんだんに裏町の舗道におりて行って歌う人と聞く人の群れの中に溶け込むのであるが、最後の大団円には、そのコースを逆の方向に取って観客はだんだん空中にせり上がって行って、とうとう天上の人か鳥かになってしまう。そうして地獄を見物に行って来たダンテのように、今見て来た変わった世界の幻像をいつまでもいつまでも心の中で繰り返し蒸し返すように余儀なくされるのである。あるいはまた艶歌師《えんかし》アルベールが結婚の準備にと買って来た女のスリッパーを取り出す場面と切り換えに、ポーラが自分の室《へや》ではき古したスリッパーをカバンにしまっているシーンが現われたり、またアルベールが預かったカバンの係り合いで捕われて行くのとポーラが重いカバンをさげて嫁入りして来るのとをぶつからせたり、こういう種類の細かい技巧をあげればいくらでもあげられるであろうと思われる。
しかしこういう種類の技巧は芸術としての映画が始まって以来、おそらく常套的《じょうとうてき》に慣用されて来た技巧であって、それがさまざまな違った着物を着て出現しているに過ぎないものであって、こういうことはまた、自分自身の頭を持って生まれることを忘れた三流以下の監督などが、すぐにまねをしたがり、またある程度まではだれでもまねのできることである。
また音響効果のほうでも、たとえば立ち回りの場で、すぐ眼前を通過する汽車の響きと、格闘者の群れが舗道の石をける靴音《くつおと》との合奏を聞かせたり、あるいはまた終巻でアルベールの愛の破綻《はたん》と友情の危機を象徴するために、蓄音機の針をレコードの音溝《おんこう》の損所に追い込んでガーガーと週期的な不快な音を立てさせたり、あるいは、重要でない対話はガラス戸の向こう側でさせて、観客の耳を解放し、そうすることによって想像力を活動させるほうに観客のエネルギーを集注させ、そうしてかえって所要の効果を強めたりするのも、これらも決しておもしろくないことはない。これらは発声映画と無声映画との特長をそれぞれ充分に把握《はあく》した上で、巧みに臨機にそれを調合配剤しているものと判断されることはたしかである。しかしこのような見え透いた細工だけであれほどの長い時間観客を退屈させないでぐいぐい引きずり回して行くだけの魅力を醸成することはできそうに思われない。それにはもっともっと深い所に容易には簡単な分析的説明を許さないような技術が潜伏しているに相違ないと思われるのである。
自分の感じたところでは、この映画の最もすぐれた長所であり、そうして容易にまねのできそうもないと思われる美点は、全巻を通じて流れている美しい時間的律動とその調節の上に現われたこの監督の鋭敏な肌理《きめ》の細かい感覚である。換言すれば映画芸術の要素としての律動的要素の優秀なるできばえである。従って一つの楽曲のおもしろさを貧弱な人間の「言葉」と名づける道具で現わすことが困難であると同様にこの映画の律動的和声的要素の長所を文字の羅列《られつ》で置き換えようとすることは、始めから見込みのないことでなければならない。
音楽における律動的要素の由来は、学問的に言えばなかなかむつかしい問題であろうが、素人流《しろうとりゅう》に言えば、要するに人間という生理的機関の構造によって規定されたいろいろの物理的振動の週期性、感官や運動機関の慣性と弾性と疲労とから来る心理的な週期性、なおまた人間常住の環境に現われる種々の週期性、そういういろいろな週期に対するわれわれの無意識的な経験と知識から生まれて来る律動の予感、あるいは期待がぐあいよく的確に満足されるということが一つの最重大な基礎となっていることは疑いもないことである。平たく言えばわれわれが自然に踊り回ると同じリズムの音楽でなければ踊る気にもなれず、また踊ろうにも踊られぬわけである。
「パリの屋根の下」における律動的要素の著しい場面をあげると、たとえば二度目にアルベールが舗道で前とはちがった第二の歌を歌っているシーンである。歌っているアルベールの大写しの顔と交互に彼を取り巻いているいろいろな顔が現われる。一番目の同じようなシーンでは観客はまだそこに現われる群集の一人一人の素性について何も知らなかったのであるが、この二度目の同じ場面では一人一人の来歴、またその一人一人がアルベールならびに連れ立った可憐《かれん》のポーラに対する交渉がちゃんとわかっている。掏摸《すり》に金をすられた肥《ふと》った年増《としま》の顔、その密告によって疑いの目を見張る刑事の典型的な探偵《たんてい》づら、それからポーラを取られた意趣返しの機会をねらう悪漢フレッド、そういう顔が順々に現われるだけでそれをながめる観客は今までに起こって来た事件の行きさつを一つ一つありありと思い出させられる。そうしてなじみになったアルベールとポーラのために一種不安な緊張を感じさせられる。それでアルベール自身の頭の中に経過しつつある不安な警戒の念が彼の絶えず移動する目のくばりに現われて、それが直ちに観客の頭に同じような感情の波動を伝えるのである。そうしておもしろいことにはこのシーンの伴奏となりまた背景ともなる音響のほうはなんの滞りもなくすらすらと歌の言葉と旋律を運んで進行していることである。もしもこれが無声であるかあるいは歌はあってもこの律動的な画像がなかったとしたら効果は二分の一になるどころかおそらくゼロになって、倦怠《けんたい》以外の何ものをも生じないであろう。
この律動的編成の巧拙の分かれるところがどこにあるかと考えてみると、これはやはりこの画面に現われたような実際の出来事が起こる場合に、天然自然にアルベール、すなわ
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