けるのも、工場と富とを投げ出してギャングの前にたたきつけるのもみんな自由へのパスポートである。
 自由はどこにある。それは川面《かわも》の漣波《れんぱ》に、蘆荻《ろてき》のそよぎに、昼顔の花に、鳥のさえずりに、ボロ服とボロ靴《ぐつ》にあるのではないか。西行《さいぎょう》や芭蕉《ばしょう》は消極的に言えば世をのがれたに相違ないが、積極的に見ればこの自由を求めたとも見られる。
 これはしかしただ自分がこの映画を見たときに偶然そう感じたというだけのことであって、もとより作者の意図ではないかもしれない。それにしてもこの作者のこの作品の中にどこかそういうエレメントが伏在していない限り、こういう見方の可能性を許すような作品が生まれることはないはずだとも言われはしないか。
 世界じゅうでいくらかでも俳諧《はいかい》を理解する国民は、フランス人とロシア人であるらしい。おもしろいことには映画で俳諧の要素の認められるのはやはりロシア映画とフランス映画だけである。いっそうおもしろい事実はそもそも俳諧の本場であるわが日本の映画が、もっとも俳諧の欠乏したアメリカ映画にそっくりな手法ばかりを墨守していることである
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