な插入が最後の「自由」のシーンと照応して生きてくるように思われる。それのみならず自分はこの映画いったいの仕組みの上からもいっさいの理屈をなくした心持ち気持ちのコンティニュイティとしての一種の俳諧を感じる。これは「パリの屋根の下」でも「百万両」でも感じたものであるが、この「自由をわれらに」でいっそうそう思わされるのである。
労働至上主義などというかび臭い説教はこの映画のどこからも自分には感じられない。この映画を見ていると工場の中で器械として働く人間は刑務所に働く囚徒と全く同じもののように思われる。学校生徒も同様である。この映画に現われる社交界の人々もやはり一種の囚徒であるように見えてくる。開場式のお歴々の群集も畢竟《ひっきょう》一種の囚徒で、工場主の晩餐会《ばんさんかい》の卓上に列《つら》なる紳士淑女も、刑務所の食卓に並ぶルンペンらも同じくギャングであり囚人の群れであるように思われてくる。
ルイとエミールはこれらのあらゆる囚獄を片端から打ち破り、踏み破って「自由」の世界へ踏みだして行くのである。晩餐会で腹をかかえて哄笑《こうしょう》するのもキュラソのビンで自分の肖像のどてっ腹に穴をあ
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