がまた、この映画が日本あるいは東京の一般活動愛好者の感激を促し得ない理由であろうと想像される。
この上記の点で著しく対蹠的《たいせきてき》のコントラストを形成するものは、日本の剣劇映画における立ち回りの場面である。超自然的スピードをもって白刃と人形とが場面に入り乱れて旋渦《せんか》のごとく回転する。すると、過去何百年来|歌舞伎《かぶき》や講談やの因襲的教条によって確保されて来た立ち回りというものに対する一般観客の内部に自然に進行するところのリズムがまさしくスクリーンの上に躍動するために、それによって観客の心の波は共鳴しつつ高鳴りし、そうして彼らの腕の筋肉は自然に運動を起こして拍手を誘発されるのであろう。しかしこの際これらの映画製作者は一つのだいじな事を忘却しているように見える。それは写真器械というものと人間の目というものの間に存する一つの越え難き溝渠《こうきょ》の存在を忘れているように私には思われることである。
急速な運動を人間の目で見る場合には、たとえば暗中に振り回す線香の火のような場合ならば網膜の惰性のためにその光点は糸のように引き延ばされて見えるのであるが、普通の照明のもとに
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