人間の運動などを見る場合だとその効果は少なくも心理的には感じられなくて、そうして各瞬間における物像はいつもくずれずに見えているように、少なくも感じるのである。ところが、これが写真の場合だとカメラのシャッターの開いている間の各瞬間における影像はことごとく重合し、その重合したぼやけくずれただらしのないものがフィルムに固定される。そういうぼやけたものを今度は週期的に一秒の何分の一の間隔をおいて投射し、それを人間の目でながめるのであるから、結果はただ全部が雑然としてごみ箱をひっくら返した上にとろろでも打ちまいたようなものになってしまう。もっともわざと焦点をはずした場合のように全部が均等に調和的にぼやけたのならば別であるが、明確なものと曖昧《あいまい》なものとが雑然と不調和に同居しているところに破綻《はたん》があり不快がある。このような失敗はほとんど日本の時代物の映画に限って現われる特異現象であるらしく思われるのである。
ロシア映画で常に気づくことはカメラの向け方から来る構図の美しさ、ことにまた画面における線や明暗のリズミカルな駆使である。「大地」の場合においても、たとえば三人の管理人が小高い
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