私の眼前に登場する人物の話している言葉が一つ一つ明確に私にわかるかどうか。私がかりにはえ抜きのパリッ子であってもそう一々わかるはずがないのである。理由は簡単である。これら登場人物中には舞台の役者のような気になってしゃべっている人は一人もないからである。これはパリに限らずわれわれの日常生活の環境における明白な事実である。こういう意味でわれわれはわれわれの直接の対話の相手の言葉以外にはかなりな聾者《ろうしゃ》であり、また「外国人」である。しかし、電車の中で向こう側にすわった彼と彼女の対話を、ちょうどフランス発声映画に対すると同じ態度で見つつかつ聞き、そうして彼らの「ノン」「ウイ」だけを明瞭《めいりょう》に了解するのである。ただし電車の二人連れについては、われわれは「その前」と「その前々」のシーンに関する予備知識を持たないのであるから、従って「その次」のシーンに対する好奇心も起こらない。結局トーキーの中のただ一片のカットを見物したと同じに、興味はただそれだけで泡《あわ》のように消えてしまうのである。またある四つ辻《つじ》で人々がけんかをしている。交番に引かれる。巡査が尋問する。人だかりがする
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