て来る。たとえばアルベールがポーラの夜の宿の戸口で彼女に何事か繰り返してささやくと「イヤ」「イヤ」とそのたびに否定する。たったそれだけである。これが、大概のアメリカトーキーだと、おそらく、このアルベール君は三町四方に響くような大声で「ささやく」ことであろう。また掏摸《すり》にすられた中《ちゅう》ばあさんが髪をくくりながら鼻歌を歌っているうちに手さげの中の財布《さいふ》の紛失を発見してけたたましい叫び声を立てるが、ただそれだけである。これもアメリカトーキーだとここでなんとか一つ取っておきのせりふを言わせて、そうしてアメリカ語のわかる観客だけをどっと笑わせないと気がすまないであろう。
普通の演劇においてはせりふは本質的要素である。役者の言葉を一言一句聞きのがしてはならない。芝居は見るものであると同じくらいにまた聞くものである。聴覚のほうが主になれば役者は材木と布切れで作った傀儡《かいらい》でもよい。人形芝居がすなわちそれである。
しかし、今私がかりにパリへ行ってその屋根の下を流れ渡り、辻《つじ》の艶歌師《えんかし》を聞いたり、酒場の一隅《いちぐう》に陣取ったりしていると想像した場合に、
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