いくらでもあげられるであろうと思われる。
しかしこういう種類の技巧は芸術としての映画が始まって以来、おそらく常套的《じょうとうてき》に慣用されて来た技巧であって、それがさまざまな違った着物を着て出現しているに過ぎないものであって、こういうことはまた、自分自身の頭を持って生まれることを忘れた三流以下の監督などが、すぐにまねをしたがり、またある程度まではだれでもまねのできることである。
また音響効果のほうでも、たとえば立ち回りの場で、すぐ眼前を通過する汽車の響きと、格闘者の群れが舗道の石をける靴音《くつおと》との合奏を聞かせたり、あるいはまた終巻でアルベールの愛の破綻《はたん》と友情の危機を象徴するために、蓄音機の針をレコードの音溝《おんこう》の損所に追い込んでガーガーと週期的な不快な音を立てさせたり、あるいは、重要でない対話はガラス戸の向こう側でさせて、観客の耳を解放し、そうすることによって想像力を活動させるほうに観客のエネルギーを集注させ、そうしてかえって所要の効果を強めたりするのも、これらも決しておもしろくないことはない。これらは発声映画と無声映画との特長をそれぞれ充分に把握《は
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