りもやはりそうである。庭作りもまたそれである。かしこの山ここの川から選《よ》り集めた名園の一石一木の排置をだれが自由に一寸でも動かしうるかを考えてみればよい。しかもこれらのいっさいを一束にしても天秤《てんびん》は俳諧連句のほうへ下がるであろう。
 連句はその末流の廃頽期《はいたいき》に当たって当時のプチブルジョア的有閑階級の玩弄物《がんろうぶつ》となったために、そういうものとしてしか現代人の目には映らないことになった。しかし本来はそれどころか実に深刻な時代世相の端的描写であり、そうして支配階級よりはより多く被支配階級の悲痛な忍苦の表現をもそれらの中に看取することができるのである。
 こういう、エイゼンシュテインのいわゆる映画術の骨髄を昔から伝えきたったその日本現在の映画は誠に彼の言うとおり、どうヒイキ目に見ても残念ながらいくらもこれを具備していないようである。これはしかし日本映画製作者だけの責任ではないので、これと同様な批評はまさに今の日本文化の全体にわたって適用さるべきであろう。
 しかし失望するには当たらない。大昔から何度となく外国文化を模倣し鵜《う》のみにして来た日本にも、いつか
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