のがある。試みにこの一巻を取ってこれを如実に表現すべき映画を作ることができたとしたら、かの「ベルリーン」のごときものは実に幼稚な子供の片言に過ぎないものになるであろう。
 しかし、話の筋が通らなくては物足りないという観客が多数にあるかもしれない。それならばかつて漱石《そうせき》虚子《きょし》によって試みられた「俳体詩」のようなものを作れば作れなくはない。
 ほんとうを言えば映画では筋は少しも重要なものでない。人々が見ているものは実は筋でなくしてシーンであり、あるいはむしろシーンからシーンへの推移の呼吸である。この事を多くの観客は自覚しないで、そうしてただつまらない話のつながりをたどることの興味に浸っているように思っているのではあるまいか。アメリカ喜劇のナンセンスが大衆に受ける一つの理由は、つまりここにあるのではないか、有名な小説や劇を仕組んだものが案外に失敗しがちな理由も一つはここにあるのではないかという気がする。
 連句には普通の言葉で言い現わせるような筋は通っていないが、音楽的にちゃんと筋道が通っており、三十六句は渾然《こんぜん》たる楽章を成している。そういう意味での筋の通った連句
前へ 次へ
全30ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング