さい》を博するのであろう。荒木又右衛門《あらきまたえもん》が三十余人を相手に奮闘するのを見て理屈抜きにおもしろいと思わない日本人は少ないであろう。いわゆるプロ芸術のねらいどころもここに共通点を持っているように思われる。
 元来アメリカにジャズ音曲とナンセンス映画とが流行する事実は、かの国に古い意味での哲学と科学と芸術の振るわない事実の半面であって、そのかわりに黄金哲学と鉄コンクリート科学と摩天楼犯罪芸術の発達するゆえんであろう。
 これに反してドイツに古い意味での哲学科学の発達したのは畢竟《ひっきょう》かの国民の「頭の悪い」ため、容易に要領を得ないため、万事オーケーイ式でないためであろう。そのためにドイツの映画においては、やはり一九三〇年以前の芸術と哲学をスクリーンの上に求めんとして努力しているように感ぜられる。
 フランス人は頭のいい人種である。マチスを生みドビュシーを生んだこの国はやがて映画の上にも新鮮な何物かを生み出しそうな気がする。アヴァンガルドというのは未見であるが、ともかくもわれわれはフランス映画の将来にある期待をかけてもいいように思われる。
 われらの祖先にも、少なくも芸術の上では、恐ろしく頭のいい独創的天才がいた。光琳《こうりん》歌麿《うたまろ》写楽《しゃらく》のごとき、また芭蕉《ばしょう》西鶴《さいかく》蕪村《ぶそん》のごときがそれである。彼らを昭和年代の今日に地下より呼び返してそれぞれ無声映画ならびに発声映画の脚色監督の任に当たらしめたならばどうであろう。おそらく彼らはアメリカ式もドイツふうも完全に消化した上で、新しい純粋国民映画を作り上げるであろう。光琳や芭蕉は少数向きの芸術映画、歌麿や西鶴は大衆向きのエロチシズム、写楽や京伝《きょうでん》は社会的な諷刺画《ふううしが》とでもいった役割ででもあろうか。また広重《ひろしげ》をして新東京百景や隅田川《すみだがわ》新鉄橋めぐりを作らせるのも妙であろうし、北斎《ほくさい》をして日本アルプス風景や現代世相のページェントを映出させるのもおもしろいであろう。そうしてこれらの新日本映画が逆にちょうど江戸時代の浮世絵のごとく、欧米に輸出される。こういう夢を見ることはたいした愛国者でなくてもあまり不愉快なことではあるまい。
 こんな空想にふけりながら自分は古来の日本画家の点呼をしているうちに、ひょっくり鳥羽僧正《と
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