前で真剣試合が行なわれたりするのも考えものであるが、これはやむを得ないことかもしれない。
 これに比べて現代を取り扱った邦画はいくらか有利な地位にある。前記第一の点の不自然さから免れやすく、第四のセットに関してもおのずから無理のないものになりやすい傾向がある。従って見ていてたまらなく不快な破綻《はたん》を感じる程度が剣劇に比して少ないように思う。それにしても自分の趣味から見るとやはりいったいに芝居をし過ぎる。そうして柄に合わない西洋人の表情をまね過ぎる。もう少しあたりまえの日本人のあたりまえの表情をすることによってかえって真実味を深めるくふうはないものであろうか。われわれの日常生活において日常交渉のあるさまざまな人間の生きたタイプを映出することができないものであろうか。現在ではただ与えられたいわゆるスターの生地《きじ》とマンネリズムとを前提として脚色はあとから生まれるから、スター崇拝者は喜ぶであろうが、できたものは千編一律である。もっともこれは日本の映画に限らない世界的の傾向かもしれないが、自分の不満はこの一般傾向に対する不満である。映画の使命は単に大衆のスター崇拝の礼拝堂を建てるのみではないであろう。
 はなはだ無意味でつまらないようである意味で非常に進歩しているのはアメリカのナンセンス映画やミュージカル・コメディの類である。ある人の説のごとく、芸術は在《あ》るところのものの再出現ではなくて、在ってほしいものへの意欲の演出であるとすれば、これらの映画はヤンキーにとっては最高の芸術である。これらの映画を見ることはすなわち観客みずから踊り歌い、放縦な高速度恋愛をし、やたらにピストルをぶっ放すことなのである。酒の自由に飲めない彼らは、かかる映画の上に自分を投射して、そこに酌《く》みかわされる美禄《びろく》に酔うのである。これらの点でこれらの映画はジャズ音楽とまさに同種類の芸術である。ジャズも客観的に鑑賞するものではなくて、自分で踊り狂うと同価値の活動そのものだからである。その証拠には、街頭を歩いているラッパズボンのボーイらが店頭からもれ出るジャズレコードの音を聞けば必ず安物の器械人形のように踊りだす。それだからこれは野蛮民の戦争踊りが野蛮民に訴えると同じ意味において最高の芸術でなければならないのである。これと同じ意味においてまたわが国の剣劇の大立ち回りが大衆の喝采《かっ
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