ばそうじょう》に逢着《ほうちゃく》した。僧衣にたすき掛けの僧|覚猷《かくゆう》が映画監督となってメガフォンを持って懸命に彼の傑作の動物喜劇撮影をやっているであろうところの光景を想像してひとりで微笑したりした。そうしてかの有名な高山寺《こうざんじ》蔵の絵巻物の画面を思い起こしながら、「絵巻物と活動時代」という一つの論題《テーマ》に思い及んだ。
 絵巻物というものの最初のイデーはおそらく舶来のものかもしれないが、ともかくこれはかなりに偉大なイデーである。そうしてある意味で活動映画の先駆者と見なしてもよいものである。実在の三次元の空間の一次元を割愛してただ二次元の断面に限定する代わりに、第四次元たる時間を一次元空間に投射することによって時間の経過をわれわれの任意に支配するという考えは両者に共通のものと考えられる。器械的技巧の点においてはほとんど問題にならないほどの距離があるが、もしこれを芸術的批判の立場から見れば必ずしも容易に両者の優劣を決定することはできないかもしれない。絵巻物では、一つの場面から次の場面への推移は観覧者の頭脳の中で各自のファンタジーにしたがって進転して行く。巻物に描かれた雲や波や風景や花鳥は、その背景となり、モンタージュとなり、雰囲気《ふんいき》となり、そうしてきたるべき次の場面への予感を醸成する。そこへいよいよ次の画面が現われて観者の頭脳の中の連続的なシーンと「コインシデンス」をする。そうして観者の頭の中の映画に強いアクセントを与え、同時に次の進展への衝動と指針を与える。これは驚くべき芸術であるとも言われなくはない。これはともかくも一つの問題である。そうしてこの問題を追究すればその結果は必ず映画製作者にとってきわめて重要な幾多の指針を与えうるであろうと考えられるのである。
 ウェルズの小説に「|時の器械《タイムマシーン》」というのがある。この精妙なる器械によってわれわれは自由に過去にも未来にも飛んで行くことができるというのである。思うに絵巻物と、その後裔《こうえい》であるところの活動映画も言わばやはり一種の「時の器械」である。時の歩みを順にも逆にも速くもおそくも勝手に支配することができる。もっとも物理的機構にたよる活動映画では、物質的実在世界の未来は写されないし、フィルムに固定されなかった過去は永久に映出し得られない。しかし心の世界の過去と未来はいろ
前へ 次へ
全15ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング